七年夏至/書けない文章
文章は、自分自身の考えを相手に伝えるために書く。主にBlogやTwitterを使う頃は、ただ考えを書き連ねることが楽しかった。しかし読書を習慣とする中で、まとまりある文章を書き上げたいという気持ちが芽生えた。製品において「機能さえすれば見た目の美しさは不要」を是をしないならば、文章もまた然り、美しく形作られるべきではないかと思ったのだ。そもそも私は何分考え事をしがちな質で、頭の中で考えが堂々巡りになることも多く、ひいては相手に自分の考えを語り出したり、考えをまとめた小難しいTweetをしがちであった。それを文章という形に予め出力しておけば、そのような行動を防げるのではとも考えた。
そうして、デザインに関わる同時代的な社会的事象に対する考えを客観分析としてまとめようと決め、「論考」という括りで文章を書き始めた。それを数本書いた折、堅苦しく気取った文章ばかりでなく、デザインに対する考えは含みつつも、身近な出来事や主観的な物の見方を表した文章も書きたいと思うようになった。論考はその性質上、考えがまとまり切らないと書き始められず、また考えを伝える上で必要な分量を書く必要がある。それにかこつけて執筆を疎かにしたこともあった。こうして論考とは質の異なる文章を定期的に書き上げられるようにと、執筆周期と文字数の目安を定め、「随筆」という括りで文章を連載し始めた。
これは面白い試みとなった。題材を探すべく日々の出来事に敏感になり、何気無い発想が言葉となることで新たな気付きを得られた。書き進める中では私自身と向き合い、省みる時もあった。また、文体はおいそれと変えられるものではなく、文面の堅苦しさは個性として諦めも付いた。何より、たった千文字程度の文章でさえ想像以上に時間と労力が掛かるのであるから、書籍がいかに贅沢な物であるかを実感した。
それからコロナ禍が明けて環境が諸々変わり、忙しくする中で定期的な執筆に無理が出てきた。かといって不定期としては、論考同様に疎かにする理由を私に対して与えてしまう。そうして創作を伴う趣味としては惜しくも思いつつ、休載とした。そうとはいえ随筆に繋がりそうな着想を書き留める習慣は付いており、しばらく経つ頃には相当の量となっていく。いよいよ対処しなければと思い立った頃、ふとその書き留めを読み直していると、書き付けた文面がどのような意味なのか忘れていたり、その内容に対する態度が私自身の中で変化していたりと、題材として不適となった内容が散見された。
何より見過ごせなかった点は、私自身から離れてしまった題材があることだった。論考と違い、随筆はその時々の自分自身の内面を反映する。既に過去の想いとなった事柄を元にして書き上げる文章は、主観的というよりも客観的なものとなるだろう。まさしくこの文章のように。そのことを認識した時に、今この時に書かなければ自身の中の気付きが去ってしまい、作れるはずだった文章が失われるような感覚を覚えた。退職を告げた夜の感情は、もはや過去の思い出としてしか書くことができない。一人暮らしを終えた時の初々しい心情は、もはや相対化された出来事としてしか書くことができない。その時期にしか書けない文章があることに気付いたのである。
こうして随筆の再開に至る。果たして以前書いてきた時から変化があるのか、これからどのような変化が起きるのか。今は、自分自身の考えを書き上げるだけでなく、自分自身の考えを知る機会が生まれることを楽しみに思う。文章は、自分自身の考えを伝えるために書く。それは相手に伝えるためだけでなく、自分自身に伝えるためでもあるのかもしれない。