三年小満/単なる自然
オフィスのデザインを行うにあたって、壁紙のショールームに足を運んだ時のことは忘れない。さまざまな模様が用意されるだけでなく、木材、石材、金属、あらゆる材料の種類ごとの見た目や触り心地、経年変化による風合いの有無までも、極めて高度に「印刷物」として再現されていた。その頃は、情報通信技術の進化と共に、物質的な空間や身体を通した人と人、人と環境との繋がりが希薄になりつつある状況について思索していた。その中で物理的な空間の価値を対比的に再発見していくわけだが、それを定義する身の回りの自然素材が実は「テクスチャー」だったことを目の当たりにし、われわれは既にVR空間にいたのかと諦観した。
さらに空調機器で整えられた密閉空間の中で、綿を置き換えたナイロン製の服を着て、木目のついた樹脂製の皿に並べたカニカマやら何やらをウレタン塗装の箸で食べ、香料だけの炭酸水で割った酒や、果汁の入らないフルーツジュースを飲み、イヤホン越しに外部音を取り込みながら、画面越しに人とコミュニケーションを取る。この頃、天窓を再現した照明が普及し始めた。いよいよ「お天道様」までも仮想的なものになるのだろうか。
断熱性、防音性、清掃性、耐久性、経済性等々、いわば「合理性」のために、周囲の環境、すなわち自然を遮断した上で、元の環境、理想化された自然をバーチャルに再現する。現代の生活空間はディストピア的ホワイトキューブ以外の何物でもなくなった。ここで注目したいことは、それでも「合理性」が剥き出しになった文字通りのホワイトキューブではなく、さまざまな製品を通して、擬似的な自然を愛でるように暮らしている点だ。
つまり、基本に自然がある。その根源的な感覚、本能的な価値基準、動物としてのア・プリオリな欲求は事実として存在している。現代社会の資源を、局所的な目先の億劫さの解消ばかりに使い続けるべきだろうか。洞窟暮らしに退行する必要はない。しかし擬似的な自然は擬似的なものでしかなく、自然が含んでいる豊かさの真の姿をも含むものではない。
万物の成長が著しく生命が天地に満ち始める、小満。花粉も収まり梅雨になる手前、夏日へと移り変わる最中の気持ちがいい季節だ。窓を開けてみる。春夏の匂いがする風通しのいい部屋の中、陽の光の下で畳に寝転がり、水出しした新茶を飲みながら読書する。本物の気候、本物の素材。これくらいの幸せ、単なる自然を、もう一度見直してもいい。少しくらい虫が飛んでいても、近所の子供の遊び声が聞こえてきても、西日に汗ばんでも、いいじゃないか。