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四年春分/新茶の季節
立春から数えて八十八夜が過ぎれば新茶の季節だ。新茶は「一番茶」とも呼ばれるように、その年に初めて摘み取られた茶葉を指す。それから成長した茶葉は二番茶、三番茶、四番茶と数えられ、通称「番茶」と呼ぶ。廉価で常飲には適しているが、新茶に比べて風味は落ちていく。そこで飲み方を変えるべく玄米を混ぜれば「玄米茶」に、焙煎すれば「焙じ茶」になる。従って玄米茶や焙じ茶は番茶が出回る秋から冬が旬であり、紅葉が色づく中の楽しみでもある。一方で緑茶に比べれば品質や価格が低く、贈答には適さないともいわれる。
そんなことは思いもしなかったかもしれない。いずれも緑茶と等しくペットボトルに詰められ、年中どこでも売られているのだから。単に好みの問題でしかなく、ひいては単に古い考えとして見下げるのも容易い。しかし自分自身の生まれ育った時代や環境の尺度だけで考えていては、その対象の本質には迫れない。ところで、一番茶を用いた玄米茶や焙じ茶も一部で出回っている。物は試しにと飲んでみれば、当然美味。比較的高価で、贈り物にも適するだろう。伝統的な価値基準が常に正しくあるとは限らず、考えなしに思い込み続けてもならない。
新茶の季節には、新茶を用いたペットボトル詰めの緑茶が出回る。試しに飲んでみれば風味が違うと分かるはずだ。あくまでペットボトル詰めに過ぎないのだが。さて、そう述べるならば家事負担の問題を挙げ、お茶には違いないのだからペットボトル詰めの方が合理的だと縷々肯定すべきだろうか。確かに記号の上ではその通りだろう。しかし、われわれは記号上の相対的な位置付けによる優劣を競っているわけではない。ここで話題としているのはその意味内容、すなわち実際のお茶である。
お茶は淹れてから時間を置けば風味は落ちていく。いわんや詰めればをや。私の感想だが、その風味はいせいぜい二、三煎目程度だろう。また、日常的にお茶を淹れていると、緑茶が手間なく淹れられるように加工されていると分かる。ペットボトル飲料の方が家事負担云々といった意見は、当座の議論のための決めつけに過ぎないのではないか。この頃、物事の価値判断が思弁に寄りすぎているように思う。画面の中の文字情報や画像に接し過ぎ、抽象化された対象と対象そのものを混同してやいないか。このことに意識的にならなければ、本質的な価値判断はますます難しくなるだろう。
ところで、なぜ私はこれほどまでに豪語しているのだろうか。そのようなつもりで書き始めたはずではなかったのだが…。疲れたので、お茶にしようと思う。
四年啓蟄/職業としての芸術
学生時分、東芝エレベータ株式会社主催の「未来エレベーターコンテスト2013」に提出した作品が審査員賞を受賞した。テーマは「エネルギー自律都市」。再生可能エネルギーが完成した未来都市を想定し、その余剰電力を都市自体に蓄電する、揚水発電ならぬ「揚都市発電」を提案した。エレベーターで都市自体を持ち上げ、位置エネルギーに変換するのだ。他の受賞作品が公開された際、私は化学エネルギーを用いるアイデアに驚かされた。私たちの議論における「化学的発想」の欠落に気付かされたのである。その原因は、物理の勉強をしてきた一方で、化学の勉強をしてこなかったからに他ならなかった。
最近のデザイン手法は客観性が強く謳われ、あたかも一定の法則に従って形が導出されるかのように印象付けられている。また「デザイン」と「アート」を対比して稚拙な二元論を展開し、デザインがアートと違って客観的なものであると断ずる表面的な解説も見受けられる。嘆かわしいことだ。確かに、私自身もデザインを知らない者にデザインについて説明するならば、その客観的性質を説明し、単なる主観ではないと理解を求めるだろう。デザイナーはただ当人が好きな形を好きなように描いているのではないと言い、ブルーノ・ムナーリの言葉を引用して、デザインとは「企画の美的要素も含めて設計すること」だと述べるだろう。
この前提には「デザインが芸術である」という事実がある。 アーツ・アンド・クラフツ運動からドイツ工作連盟、ロシア構成主義、バウハウスといった芸術運動の歴史を辿り、デザインの始まりが産業社会における美の創造にあると説明しても、新古典主義から十九世紀における建築様式の混乱の果てに、建築工法の発達及び産業建築を評価し生まれた国際様式の成立、そしてモダニズムの普及からポストモダンの提起と、建築様式の歴史に寄り添ったデザインの発展を説明しても構わない。ともかく、何ら比喩ではなく、デザインはまさに芸術そのものなのである。
この芸術はその性質上、経済合理性に基づき、さまざまな客観的手法を用いた、客観的説明が可能な造形が求められる。だからといって、その行為の全てに主観が含まれないわけではない。核となる発想を導くにあたって、客観を積み重ねた果てに自分自身が発露してしまうのだ。その意味で、デザインは間違いなく主観に基づくのである。だからこそ、自分自身が発想の上での限界となることを理解しなければならない。自分自身がいかに何も知らないかを知り、自分自身にレッテルを貼ることなく、研鑽を積まなければならない。
四年雨水/天職
つくづく、デザイナーが天職だと感じる。一生続けていきたいし、そう努力し続けるつもりだ。幼い頃からデザインに触れる機会が多く、といった話ができれば物語として美しいかもしれない。しかしデザインは私にとって後天的なものだ。元々はいわゆる理数系科目が得意で、 最も得意な科目は「物理」だった。得意というより、いたく好きだった。市の図書館で自習する合間、休憩しようと物理学の棚に向かっていた程だ。それから、志望大学を決めるべく進学先を調べていく過程で工学部にあるデザイン学科の存在を知り、同時に初めて「デザイン」の存在を意識したのである。
美大を進学先の候補には入れなかった。実技試験に対応できない、という単純な理由に因る。入学して間もない頃にはそういう面を負い目に感じていた。しかしデザインを学ぶにつれ、それを以ってして不利とはいえないと分かった。正しい形を発見する能力こそが、デザイナーにとって重要なのだ。デザインは芸術と科学の交点にある。この頃はさまざまなデザイン学科が増えているが、われわれのように自然科学を出自とする者が居るように、社会科学や人文科学を出自とする者が居て然るべきだろう。当然、 最終的には造形して始めてデザイナーであり、そのことに何ら変わりはない。もともと絵が描けなかったとて、志した以上はその手の技能を習得するべく努力する必要がある。さりとて、美術を出自とする者の造形に対する闘争心には目を見張るものがある。私は未だその強さを獲得できていないように感じ、自省する。
今となっては、自分自身とデザインは切り離せない。私生活においても常日頃デザインのことを考えているし、社会生活においても「デザイナーの髙橋さん」として人付き合いが進む。私自身、デザインを学ぶ過程でデザインに影響を受け、いろいろと変化した。しかし時折そうではなかった頃の、すなわち元々の私を郷愁する。人生にはさまざまな分岐点がある。大学受験における第一志望は工学部のデザイン学科であったが、数がそう多くないため、第二志望には物理学科を選んでいた。これが、私の人生にとって重要な分岐点の一つだ。もし、物理学科に進学していたならば、今頃どうしていたのだろう。もし、デザインと無縁のままであったなら。さまざまな意味で全く違う人生だったに違いないが、その一方で、理論物理学者を天職に挙げ、こうしてひたすら文章を書き連ねているのだろうとも思うのである。
四年立春/映画鑑賞
私の趣味は、映画館での映画鑑賞だった。感染症の流行により封切りが少なくなったことが契機となり、というわけではない。あれは劇場で『君の名は。』を鑑賞していた時のことだ。物語の展開や登場人物の心情を追うことはでき、アニメーションは美しく、挿入歌も自分好み。世間受けする理由も分かる。しかし作品の良し悪し以前に、全く鑑賞行為に集中できず、心に残らない。やはり、精神的に参っているらしい。映画鑑賞によって、そういう自分自身に気付かされたのだ。
まさに心に残ることこそが、私を映画好きにした。鑑賞後には自分自身が一変してしまうような時間。日常の繰り返しから、つまり自分自身から離れ、見つめ直し、取り戻せる時間。このことが代え難かった。劇場の席で腕時計を外し、ただ映画の始まりを待つ。私が最も好きな時の一つだ。この頃は幕間も広告ばかりで辟易しているが。時には酷い映画に出会うこともある。しかしそれを語るのも楽しく、真に酷い思い出にはなかなかならないものだ。自宅での鑑賞であれば、ただ中断してしまうだけだろう。
スマートフォンの画面で通勤通学の合間に途切れ途切れに見た『TENET テネット』と、フルサイズのIMAXシアターで観た『TENET テネット』は同じ映画ではない。スクリーンの大きさ等はいうまでもなく、その映画に集中できるかどうかが違う。私は自宅の鑑賞の際に(エントリーモデルではあるが)プロジェクターやシアタースピーカーを用い、通信機器から離れて室内は暗くする。どれも、ただ映画館らしさを作ろうとしているに過ぎない。しかし自宅で観るということは、自宅に居るのだ。そうなれば他の途端にやるべきことが挙がる。家事をしなければ、読書や制作をしよう、ビデオゲームをしたい。何より、映画を観られるような時間には晩酌しようと思い立つ。だからこそ映画館に足を運ぶのだ。映画鑑賞は楽しみであるが、遊びではない!何せ、劇場で生ビールを買おうとはしないのだ。
先日、映画館で『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』を鑑賞した。ウェス・アンダーソン監督の絵作りは他では味わえず、話運びには映画の映画たる心地良さが満ちている。何より今回の主題は雑誌、すなわち活字文化であり、私の好みにも甚だ合う。大いに満足して映画館を後にする中で、否応なく、映画館に足繁く通っていた頃が思い出された。幸いなことに徐々に気を取り直し、現在は昔のように映画鑑賞できる。しかし、やめてしまった習慣を取り戻すまでに至っていない。そこにはある種の喪失感さえ覚える。やはり、未だに私の趣味なのだろう。映画鑑賞によって、そういう自分自身に気付かされたのだから。
四年大寒/合う
ご多分にもれず、一人暮らしを始めてすぐの頃にはイケアの製品を揃えた。とりわけ気に入っていたものが、「IKEA365+」シリーズの磁器製ディナーウェアである。低価格帯に抑えられているにも関わらず、さまざまな料理を盛り付けられるラインナップで、それほど安っぽくなく耐久性もあり、収納のこともよく考えられていた。調べてみれば、三年もの期間を掛けて世界中の食卓や料理を調査した上で、都市のコンパクトな住空間で多様な食生活を送る若い世代に向け、開発されたという。極めて適切にデザインされた製品であった。
ある日、私は製品コンセプトの通りに都心の狭い集合住宅で料理していた。戸棚からそのシリーズの丸縁ボウルを取り出し、親子丼を盛り付ける。すると妙に様にならないことに気付いた。よく観察してみればこのボウルは丼にはやや小さく、低く、丸みが抑えられている。しかし丼物というと、ぽってりとした器に盛り付けられている様子を思い浮かべるだろう。そもそも、名前の通り「ボウル」なのだから無理もないのだが。
後日、無印良品に足を運んだ。その中から件のシリーズに並ぶものといえば「白磁」シリーズだ。故・森正洋氏によってデザインされた食器群である。例の丸縁ボウルに近い形の器を探したところ、思い通りにぽってりとした「丼」が見つかった。早速買い求め、再び料理して盛り付ければ、実にしっくりくる親子丼が出来上がった。
いずれのシリーズも一目見た印象は近く、仕様を並べれば似たようなスペックである。しかし、実際のかたちはそう単純ではない。そもそも「IKEA365+」シリーズは特定の食文化に向けてデザインされていない。このことが様々な問題解決を実現したわけだが、料理を引き立たせるものにはならなかった。他方の「白磁」シリーズは和食を中心としてデザインされており、このことがかたちに食器としての意味をもたらした。何にでも合うということは、何にも合わないということに他ならないのである。
北大路魯山人曰く、和食の勉強の半分は器の研究であるという。逆説的に考えれば、器のデザインの半分は食文化の研究であるのだろう。
四年小寒/関数化
デザインは芸術の一分野であるが、作家性を発露させるものではない。しかしデザインが創作活動である以上、結果として作家性は発露してしまう。このことをデザインする立場の側からみれば、完成した作品から自分自身を知るのである。作品はカルマだ。作品が次の作品を決めると同時に、自分自身をも決めていく。
才能も、努力する才能もない。自分自身のことを頼れないと分かったからこそ、頼れる自分自身を探す。そのためには真面目に、本気でやるしかない。そして、結果の如何を問わず受け止めるしかない。どうせ、私は私に縛られるのだから。結局のところ、いかにして自分自身を活用するか、ということでしかないのだ。そうして私が私であることに対する諦めがつき、その裏返しとして確信を持てていることに気付く。
自分自身の出自を振り返る。どこから、どこへ向かってきたか。何を行い、行わなかったか。そうして自分自身を演繹する。また、自分自身の発言を観察する。その中から公式見解を省いたところに本音がみえる。それを見極めていくことで自分自身を帰納する。こうして、自分自身が「出来事」に直面したときの「結果」が想定できるようになる。すなわち、自分自身という関数を知るのである。
全ての物事は対数関数である。いつか収束してしまう。新しいことを始めても、いずれ収束に向かっていく。それでも、対数関数である限り全く値が変わらないことはない。その先には新たな喜びが、発見が、達成がある。しかし変化量がわずかであるのも事実だ。
自分自身という関数もまた、対数関数である。やはり収束してしまう。その関数のグラフを変えるには新たな変数が必要だ。だからこそ、人は人と共になる。
三年冬至/時間感覚
幼い頃に友達と遊びに出ようとすると、決まって「暗くなる前に帰りなさい」と言われた。冬になるとすぐに陽が落ちるのがもどかしかったように思う。夕暮れに染まる空から、帰宅時間が近いことを知った。定刻になれば防災無線から「夕焼け小焼け」が流れ、いよいよ家に帰ろうと別れた。
在宅勤務していると、だんだんと陽が暮れる様子が分かる。照明を付ける頃合いになり、退勤時間が近いことを知る。まるで幼い頃のように。一方、オフィスは均質な環境を作ろうとするため、自宅とは違って屋外の状況を体感しづらい。従って時刻に基づいて時刻を判断するしかない。もうこんな時間か、というわけだ。
明治五年に公布された改暦の布告により、我が国はグレゴリオ暦を採用し、現在の時刻制度に移行した。それ以前は天保暦を使用していたが、その特徴は「不定時法」にある。それは日の出と日の入りの約三十分前(明け六つ、暮れ六つ)の前後を「昼」と「夜」とした上で、それぞれを六等分して「一刻」の長さを決定する時刻制度である。季節によって、さらには一日の中でも時間の長さが変化するという、単純かつ合理的なものだ。要するに「明るい時」と「時刻上の昼」が一致する。農民はいうまでもなく日の光と共に働く。江戸っ子は早起きというが、町民もまた日の出日の入りに合わせて暮らした。それというのも、灯りの燃料となる菜種油が非常に高価であったのだ。何も数値的な時間概念が無かったわけではなく、定刻になれば「時の鐘」が全国津々浦々に鳴り響くよう整備されたし、不定時法の時間を刻む時計(和時計)も多く作られた。なお、天保暦は西洋天文学の成果を取り入れており、グレゴリオ暦同様に高精度なものであったという。生活上の、暦上の不都合によるものではなく、西洋化の一環において明治改暦が実施されたのである。
われわれは成長の、近代化の過程で一日の長さを等分する時間感覚を身に付け、今ではその数値情報無くして生活できないものとなっている。しかし、かつて時間感覚は数値的な情報ではなく、空の明るさ等に、すなわち環境的な状況に基づいていた。むしろ、それこそが日本の伝統的な時間感覚であったのだ。
空気以上に疑わない「時間」でさえ、絶対的なものではない。果たして、私は何に内包されているのだろうか。それを知ることが学び続ける目的であり、作り続ける動機であるように、この頃は思う。
三年大雪/車事始め
今更ながら、普通自動車免許の教習所に通い始めた。両親からは早く取得するようしばしば言われてきたが、都区内在住の以上その必要性は現時点においても全くなく、よくいわれるところの「身分証のため」といった正当化をするつもりもない。あえていえば、身の回りに車好きの者が多く度々唆されてきたことや、この頃の感染症による社会活動の制約がなくなった後から通う気にはならないだろうと思ったこと、逆に都区外の車が必要となる地域では行動の制約を受けることに気付いたこと等、いろいろな出来事の中で気持ちが昂ったからとでもいおうか。
車といえば、インダストリアルデザイナーにとって最も大きなデザイン対象であり、その意味に於いて憧れの対象でもある。それを生業としているのだから車にはもともと興味を持っていて然るべきだろう。しかし私の場合は、学生時分に「プロダクトデザインを学ぶのだから車のことを知らなければならない」という考えのもと、車に興味を持つよう自らを促した。順序が全く逆なのである。思えばカメラに於いてもそうだった。写真撮影を趣味にするような性格だからデザイナーを志しそうなものだが、私の場合は「デザイナーを志すのだからカメラに興味を持たなければならない」という理由でカメラを持つようになった。つくづく倒錯している。あるいはデザインを学ぶことに対して忠実ともいえるのかもしれないが。
カメラの使い方を身に付ける過程で、初めはプログラムオートから始めた。多くの経験者による「マニュアルは必要ない、絞り優先かシャッタースピード優先で十分」といった教えに従い、操作に慣れてきた頃からそれらのモードを使った。しかしその機能の意味を学んだ上でも両者を使い分けられず、つい適当に露出補正で明るさを合わせて撮影してしまう。ある時ふいにマニュアルモードに切り替えてみると、ただ撮像すらできないことに気付く。しかし徐々に各設定項目の機構上を役割を体感し始め、いつしか満足に撮影できるようになった。すると、絞り優先及びシャッタースピード優先の各モードもまた、使い分けられるようになっていたのである。この順序で学ぶ意義を経験できたのは、私の思索に非常に大きな影響を与えた。新しい物事を身に付ける上で、また新しい物事をデザインする上でも、ある機能がある機構の「何を省略するのか」を正しく理解することが重要なのだ。
さて、そういうわけでオートマチック限定免許ではなくマニュアル車の免許を選択したのだが、生来運動神経が悪いのも相まって大いに苦労しているところだ。しかし、物理的な機構を直接操る面白さも徐々に感じ始めている。ややこしい人間性であることは自覚しているが、その要素がもうひとつ増えてしまうかもしれない。いろいろと先が思いやられながら、今日も教習所に通っている。
三年小雪/長屋暮らし
現代人は外食ばかりで料理しなくなったといわれる。その反論として料理行為自体を否定するような言説も散見されるが、それには同意しない。しかし、都心の集合住宅の台所となるとまな板を置くのもままならない有様なのだから、社会がわれわれに料理させたくないのではないかとは感じていた。
私自身は土井善晴氏の教えの通り、一汁一菜を基本とした食生活を送っている。気が向けば主菜も作るが、鶏肉や豚肉、小魚を焼くか、この頃はお浸しを作ることが多い。無論、食料品店に行けば割引の惣菜を買い求めるし、せっかく東京に暮らしているのだから外食を躊躇することもない。
江戸時代中期に遡ってみよう。江戸に住む一般庶民は借家の長屋に暮らす。室内は六畳のワンルームで、四畳半の畳が敷かれた。残る一畳半の土間には小さな竈しかなく、食事は一汁一菜を基本として、干した目刺や煮炊きした野菜等を食べていた。多くの人が煮売屋(煮物や汁物を売る店)や棒手振り(天秤棒を担いだ行商)から惣菜を買い求め、また明暦の大火を契機に外食が大いに栄え、蕎麦や天ぷら、握り寿司等が江戸前料理として普及したという。
つまり、現在の暮らしのあり方と大きく変わらないのである。私はこれまで、現代、とりわけ戦後の高度経済成長を基点として、都市部の暮らしのあり方が規定されてきたかのような印象を持っていた。そして、それには産業社会における生活空間及び生活用品の設計、すなわち工業デザインが強く関与しており、それ自身の自省的な再検討が必要なのではないかと考えあぐねていた。しかし、そもそもどこまでが産業社会によるものだったのだろうか。実際は都市の形成そのものがこの暮らしのあり方をもたらしてきたのかもしれない。江戸時代後期になれば問屋制家内工業が発展したとはいえ、本格的な産業化は明治時代を待たねばならないし、バウハウスやドイツ工作連盟は疎か、アーツ・アンド・クラフツ運動すら起こる以前のことなのだ。
地方にしばらく滞在したのちに都内の大型駅に着くと、東京に帰ってきてしまったと感じる。どうしても都心の暮らしを自然なものに思えないのだ。そうとはいえ、東京に帰ってきてしまったと感じているのも事実だ。紛れもなく、私自身が住む場所なのである。「長屋暮らしの町人」として、もう一度、この生活のかたちを捉え直してみたいと考えている。
三年立冬/旅行の体験
国内旅行に出掛けるならば、神社仏閣や自然景観を訪れ、郷土料理と地酒を頂き、ゆっくりと温泉につかりたい。桜や新緑、紅葉を見られれば上々。最近になり、参道に並ぶ土産屋群、いわば「ワールドバザール」の楽しみを覚えた。特にその土地の食材や調味料、加工食品等々に惹かれる。見知らぬものが多く知的好奇心が刺激されるし、買って帰れば、普段は口にしないものを肴にしながら旅を追想できる。
子供時分にも両親や親戚に連れられてそのような場所を訪れたが、なぜ大人達は揃いも揃ってこういうものが好きなのだろうと訝しんだものだ。それよりディズニーランドの方が楽しいのに、と。それから歳を重ね、私なりに経験を積み、思索や選択の結果としてこうした楽しみも知れるようになったと感じていた。しかし知人友人に尋ねてみれば、同じく歳を取るにつれて似たような傾向が出てきたという。冬になれば乾燥肌に悩まされたり、油物が苦手になる一方で渋い味を好むようになるといったことは、身体的現象であるため多くの人に共通するのも理解できるが、こうした趣味趣向に収束していくことについては釈然としない。だからこそ我が国の古来からの文化となっている、ということだろうか。
先日、初めて「部屋食」を経験した。案内の際には時節柄必要な措置であり、この方が有難いだろうと思ったが、いざ食事が始まればどうにもしっくりこない。旅館における標準的な水準の客室の間取りは「1K」だ(無論、台所はないが)。集合住宅より広いとはいえ、空間としてはそれに似通う。陽も落ちて窓から風景が見えるわけでもなく、居室として画一的に照明が照らされ、ただ空調の音のみがする。それならばとスマートフォンから音楽や音声を流してみれば、いよいよ自宅での食事同様の状況がつくられてしまう。
当然、客室は客室である。 通常、食事の際には食事処に向かい、時間的に客室を居室と寝室に切り分けるわけだが(多くは食事の間に布団が敷かれて居室が寝室となる)、部屋食の場合は居室としている間に食事室の機能が要求されるため、滞在の上でもいろいろと配慮しなければならない。尤も、居室と食事室、寝室が物理的に分かれた中での部屋食が望ましい。しかし、そのような水準の客室になかなか泊まれるものではない。そうとはいえ、現在の「1K」のまま部屋食が体験的に演出されるのも鬱陶しいだろう。
客室と食事処の分離には、単に配膳の都合だけではなく、空間を最適化できる利点がある。周りから調理や食事の音が聞こえるのも、空間演出として一役買っているかもしれない。食事処のあり方が、食事に最適化されていることを再確認した次第である。
三年霜降/自然な暮らし
数年前は品川区の外れに暮らしていた。決して手頃な賃料とはいえなかったが、その地域における相場を参考にして、低層の賃貸マンションを選んだ(単なる集合住宅に対するこの表現は好みではないが、ここでは標準的な言い回しに合わせる)。広さは二十平米程度。外観は小綺麗にまとまっており、オートロックや宅配ボックス、敷地内ゴミ置き場を備える。内廊下で快適な温度が保たれ、害虫被害もない。RC造により、断熱性、遮音性の優れた住環境。近くを鉄道が走るが、防音ガラスの窓を閉めれば騒音はほとんど聞こえない。場所も建物も十分な住居だった。
ある時、家族で祖母に会いに行くことになった。幼い頃には盆暮れ正月になれば帰省していたが、随分な田舎にあるため、成長するにつれてその頻度は減っていった。修了直後に行った時には、もうここに来ることもないのだろうと心した。美術館も映画館もなく、無印良品は疎か必需品以外の商店も望めないところなのだ。今回にしても何日も滞在することはないと思い、ひとときの懐かしさを味わったのち、家族を残して早々に都心に戻った。
いつもの暮らしに帰ってきて、自ら求め、合理的に選択したはずのこの住まいに対し、妙な違和感を覚えた。まるで狭い箱の中に押し込められているような体感があった。分厚いコンクリートに囲まれ、外から断絶させた空間。そこには人工素材の壁紙、印刷された木目の床材がテクスチャとして貼られている。周りを見渡せば、合板の家具、合成繊維の寝具。外を歩けば、排気の、室外機の、アスファルトの臭いがする。空気が澱んでいた。高い建物に視界が、街灯や窓明かりに空が遮られている。
つい先頃の田舎の中での体感が、否応なく思いだされた。遠くの野焼きの、草の、土の匂いがする。空気が澄んでいる。呼吸の度に、肺の中まで澄んでいくようだ。川のせせらぎを眺める。遠くの山々に囲まれる中で、遠くが見えることに気付く。昼間には無数の蜻蛉が空を舞い、夜には無数の星々が空を彩った。家に入れば、昭和期の建物ではあるが、空間は襖や障子、畳といった自然素材で作られ、代々と思われる家具や地域の日用品が並ぶ。窓は開け放して自然の風が流れ、自然の音が聞こえる。家族で夕食を取っていると、小さな雨蛙が一匹迷い込んできた。全てが連続している。心身が解放される心地がする。
田舎は「何もない場所」ではなかった。都会暮らしにはないものの全てがあった。私たちは、不自然な暮らしを強迫観念的に作り続けてきたのではないか。自然な暮らしの形とは、何なのか。
三年寒露/道具の完成
新型iPhoneは秋の風物詩だった。眠い目を擦りながらスティーブ・ジョブズのプレゼンテーションの情報を追い、発売日には早くから本体を確認しに出向く。未完成のものがどのように形作られていくかを、時代と共に、社会と共に、確かめていく感触があった。だからこそひとつひとつが面白かったのだろう。iPhone XRの頃からだ。気づけば新しいカメラの発売に成り代わり、努めて気に掛ける必要がなくなった。端的にいえば、スマートフォンは道具として完成したのである。
とはいえ、今でもAppleに注目すべきなことには変わらない。Apple Watchは独壇場で発展しているし、AirPodsは瞬く間にイヤホンの定型となった。この両者を組み合わせた姿にはスマートフォンを置き換える潜在性があると思うのだが、そのためにはSiriが、『her/世界でひとつの彼女』におけるサマンサとまではいわないが、高度な水準にならねばならない。逆に、それさえ叶えば他に追従できないものになるように思う。この領域には成り行きを見守る価値があるが、Siriのアップデートはほとんどなされなくなっている。
完成した道具は些細な改良に走るのが常だ。わずかに滑らかになった筆記具、比較的軽くなった調理器具、ささやかな億劫さを解消する白物家電。当然、わざわざ書きづらいボールペンを使い続ける必要はない。しかし滑らかさに比例して創造性が高まるわけでもないのだ。翻ってスマートフォンにおいても、カメラの数が増えようと、バッテリーが多少長持ちしようと、それまでの役割を大きく拡張するものではない。パソコンを立ち上げることがなくなり、離れた人とのコミュニケーションの密度が高まり、テレビに拘束されずに行動でき、財布やカメラを常に持ち歩かずとも使える。日常生活のあり方、行動にそういった変化をもたらせばこそ、既存の道具をスマートフォンに置き換えていく価値を認めていたわけだが、もはやスマートフォンという道具における可能性は広がり尽くしたのだろう。誰しもが高度なゲームに熱中するわけでも、映画を撮影するわけでも、海の中に潜るわけでもないのだ。
照明をいつ買い替えるだろうか。引越して生活空間が大きく変化したときか、使用し続けて物理的に故障したときか、蛍光灯からLEDへ基幹の技術が移り変わったときか、気に入る造形のものに出会ったときか。よほどの照明好きでない限り、毎年のように新商品に買い替えることはないはずだ。スマートフォンもまた、そのような日用品のひとつになったのである。わずかな改善を求めたところで、その道具の用途は変わらない。然らば、その道具を用いて何を行うのかをもう一度思い出すべきだ。新しいカメラに買い換え続けるより、古いカメラで旅に出たい。道具は、仕事を果たしてこそ道具なのだから。
三年秋分/本物とは
新潟県の佐渡ヶ島に縁があり、数年前の今頃にも訪れていた。島内を巡っていると、神社の境内で古い能舞台をしばしば見かける。都心で想像するような、劇場施設としての能楽堂ではなく、ほとんど野生の能舞台かと見紛う。調べてみれば、佐渡ヶ島は、能を大成した世阿弥が七十二歳の時、第六代将軍足利義教によって流刑になった地だという。その後、江戸時代になってから能文化が島内に広まり、神事として発達、多くの能舞台が作られたそうだ。今でも三十以上、日本の三分の一に及ぶ数が現存し、島民によって演じ継がれている。ちょうどその夜にも開催されると聞き、折角なので見に行くことにした。
一礼して鳥居をくぐり、右手にある能舞台に向かう。そもそも神社であるのだから、待つ間も自然と神妙な気持ちになる。しばらくすると能囃子が鳴り始め、大きな松明を持った巫女が二名、舞台前に現れる。松明は白装束の火守りに渡り、篝火が灯される。そうして「薪能」が始まった。
能には、院生時分に授業で少し接した。母校には能楽研究所があり、第一人者足る観世流の能楽師の方が講師だった。この時に、はじめて能を鑑賞した。その構造や歴史を学び、舞台の上に登り、能面を手に取ることもできた。また接する機会があるとは思わなかったが、授業を受けていて幸いした。とはいえ単に授業を受けただけであり、急に見る演目に対する知識を持ち合わせてはいない。また、都心のビルの中にある能楽堂のように、ここでは演目に関する十分な解説があるわけでも、現代語訳の字幕が表示されるわけでもない。内容はほとんど理解できずにいた。
だからこそ、だろう。「伝統芸能」を見に来ているのではなく、幻想的な雰囲気の中に佇み、幽玄を体感しているように思えた。見上げると無数の星々がある。宇宙の中の、星の中の、空の中の、島の中の、山の中の、森の中の、人々と、虫の音、能囃子、月の光、篝火、舞台の灯り、全てが一つとなり、舞いを作り上げていた。風土と歴史が一つの形に、神事として結実している。この時に、はじめて能を観照した。
このことは強烈な体験だった。本物とは何なのか?われわれはあらゆる物事を、経験も、理解も、説明も、表現も、使用も、製作も、できるようになった。しかし、そう思い込んでいるだけではないのか。そのことにすら気付けていないのかもしれない。果たして、物事の真の姿を捉え、知り、作ることができているのだろうか?
三年白露/世人
Twitterから離れて暫く経った。積極的に活用していたわけではなく、隅で楽しむユーザーの一人だったが、十一年も続けていたことを思えば決して些細な出来事ではない。直後には孤独に感じることもあったが、正しい決断だったと思う。現状のままであれば、戻ることはないだろう。この頃のTwitterで目立つ言説は、あたかも社会性を持つかのように述べておきながら、その実ただ利己性を剥き出しにしているだけにみえる。だからこそ、疲れる。そう、ひとえに疲れてしまったのだ。
何より、自分自身の思考に悪影響を及ぼしつつあった。例えば「ある時、差別的な対応をされるかと身構えたが、結果として素敵な体験だった」という構文。いずれも良い話として流布されるわけだが、大抵その話の前提に強い差別意識が含まれることに気付かない。このような欺瞞を見かける度に、決してTweetしないが、内心では反論を試みていた。逆に何かをTweetしようと思えば、言われなき反論がなされるのではと恐れ、推敲していた。不毛だった。反論行為や反論対策を内面化しつつあることに気付いたのだ。
われわれの世代は、正確にいえばデジタルネイティブではなく「テレビネイティブ」だろう。ゆえに私はテレビからWebに移った。ここではワイドショーやバラエティから離れて、ゴシップやマウンティングを抜きにして、趣味に興じ、興味を深められた。しかし、気付いてみればTwitterはワイドショーを、YouTubeはバラエティを自己消費している。さまざまなSNSは、その内容とは無関係にコミュニケーションを消費するよう働く。Webが自分自身の居場所ではなくなっていく感覚にも、もう慣れた。私はテレビが嫌いだったのでも、Webが好きだったのでもなく、この喧騒が嫌だったのだろう。
この頃、また本を読むようになった。あえて積ん読を目立つように積んだ。時には無心で、時には我慢しながら読む。ここには「私に教えてみせよ」という傲慢がない。私が学びにゆくのだ。ただ孤独に過ごしているだけなのかもしれない。しかし読み進める中で繋がりを覚えることがある。あたかも、かつてのWebのように。全てが繋がった社会からこそ、そのような繋がりの価値を再発見できたのかもしれない。
三年処暑/言葉の違い
「前」と「後」の前後関係を考えてみる。「前を向こう」「後ろを向くな」という言葉にも現れている通り、「前」は未来を、「後」は過去を示す。しかし「前に行った」「後で行く」といえば「前」は過去を、「後」は未来を示す。過去、現在、未来は時間軸を絶対的な基準としているが、前、後は相対的なものだ。従って、逆さに使うことができる。「前のことは忘れて、前を向きなさい。」
「左」と「右」もまた曖昧なものだ。中学生の頃、理科を学んでいて心臓の左右方向に混乱したのを覚えている。また、そもそも左右をすぐさま判断できない人がいると聞く。確かに、当然の共通認識と思い込んでいるが絶対的な基準はない。各辞書の語釈を比べてみると面白い。東西南北やアナログ時計、漢字の書き順、辞書自身のページ番号と、さまざまな説明が試みられている。
「99」と「100」の差は1である。「73」と「74」の差も1だ。ここに数学的な違いはなく、科学的分析においても当然違いはない。しかしあらゆる場面、株式市場や感染症対策といった淡々とした分析が求められる状況でさえ、われわれは十進法上の切りのいい数値に意味を持たせがちだ。客観的説明のために数字を用いているはずが、言葉として捉えているのである。
「得る」と「失う」は、現象として見れば全く同義だと思う。何かを得た時、何かを失っている。逆も然り。力学的エネルギーは保存される。では、なぜ人は喪失感に苛まれるのだろうか。もちろん、人の感情は現象全体を基準としているのではなく、自分自身を基準としているからだ。それが言葉の違いにも反映される。
「暑い」と「寒い」には、季節がもたらす豊かさが含まれていたはずだ。時には慈しみ、時には警戒する。しかし、この頃は「暑い」も「寒い」も同様にただ「不快」を示してはいないだろうか。無思考な快適さだけを求め、いずれは暑い、寒いの区別もなくなり、ただ「快」と「不快」の言葉だけで事足りてしまうのかもしれない。その兆候となる言葉が「エモい」だ。「感情が揺れ動いた」という内的現象自体を表現しているわけだが、そのままで言葉が成立するとは。本来、その内的現象の内容を表現するのが言葉ではなかったか。
人は言葉を通して考えており、考えている以上は言葉によって物事を捉えている。言葉によって、感情や現象は固定化するのである。もし違う言葉になってしまうなら、いっそ言葉にはせず、そのままにしておいた方がいいのかもしれない。正しい言葉を用いなければ、元々の感情や現象の意味内容が変わってしまうのだから。
三年立秋/外出自粛
ここ数週間の感染拡大には最も危機感を覚えている。都区内に住んでいる上、身近な者の中でも発症者が出始めた。SARSのように終息すれば幸いだが、MERSは未だ収束していない。COVID-19もまた、いずれは重篤な風邪の一種として見なすのだろう。とはいえ現時点ではその見通しがないし、そうであっても風邪は引きたくない。一人暮らしの中で胃腸風邪に罹り、三十九度を超える高熱が出たことがあった。歩けば五分も掛からない病院に行くのがひどく辛く、薬をもらって尚、何日も絶食が必要だった。あのことが脳裏によぎる。そういうわけで今回の宣言下においては、ほとんど昨年春以来の警戒感を持って外出自粛している。
私は元来出不精で、在宅推奨自体にはさほど動揺しなかった。せっかく自宅にいるのだから、自宅でしかできないことをすればいい。確かに、精神的な限界からか休日になれば飲んだくれるような期間もあったが、無為な日々には耐えられなくなるものだ。整理や掃除、日用品の買い替え等を積極的にすすめた。職業柄か、性格か、こういった行為の中でこそあれこれ考えてしまう。鍋の一つを買い増すにあたっても、道具の分類、歴史や文化的背景、製品企画、素材の特性、美観や使用性、台所空間上の美観、実際の利便性や経済性等々を、当然の過程として調査、比較、検討する。手に取り、使用して初めて気付くことも多い。ただ面倒ともいえるが、体感的に思索できる機会と捉えている。
とはいえ家事ばかりを行えるものではなく、いろいろな試みもすすめている。随筆もその一環である。昨年の展示会のWebサイトや個人の作品集を整え、昨年にはほとんど読書しなかった反省から積ん読を積極的に崩す。この頃はさまざまな歴史書を読み進めている。私は工学系出身で、大学受験の際にはいわゆる理系科目を中心に学んだため、とりわけ歴史知識の欠落を自覚していた。大学以降の学習は座学中心ではなくなり、知識の体系的理解に集中する学習行為がまるで受験勉強のようで郷愁に駆られている。幸い健康のまま、困窮に陥ることもなく、こうしていられるだけでも有難い。しかし外に出ることも人に会うこともなく、生活の全てを仕事に還元しているのだから、どこか気が休まらないようにも思う。
私は大学受験の際に、予備校等に通わずに自宅で独学する「自宅浪人」を自ら選んだ。確かに、精神的な限界からか怠惰に過ごす期間もあった。しかし外に出ることも家族以外の人に会うこともなく、生活の全てを受験勉強に捧げた。ここ一年半の状況は、自宅浪人のそれに極めて近いように思う。しかし大学受験には期日があり、その暁には元通りの生活が再び始まる。その事実を糧にしていた。一方、今現在の状況においては糧になる事実が見いだせない。終わりのない自宅浪人のさなかにいるような感覚が拭えないのである。
三年大暑/夏の記憶
下駄が割れて足の裏を軽く怪我した。やはりアスファルトには向いていないのだろう。和服は一般的に着られなくなったが、洋装が普遍的なものとは限らず、風土や身体的特徴を考えれば不自然といえなくもない。しかし履物は事情が異なる。道路は未舗装、あったとしても砂利道で、頻繁に田畑に入るような頃に成立した履物を、あらゆる道路、校庭でさえも舗装されるような状況において使い続ける方が不自然だろう。だからといって、ナイロンやゴムで下駄を作ればよいとも思わない。木製のスニーカーのようなものだ。使用環境と素材、装いに適合した設計の靴を使うべきである。
それでも尚、夏には下駄を履きたくなってしまう。子供の頃を思い出す。祖父母は農家で、随分な田舎に住む。夏になる度に帰省すれば、子供らしく畦道を歩き回り、蛙や蜻蛉を捕まえていた。ある日、いつものように遊びに出かけようとすると、いつも祖父が履いている下駄が目に止まった。おもむろに履いてみるが大きすぎて、足の指で鼻緒をつまむように擦り歩く。そんなふうに楽しみながら、いつかちゃんと履けるようになりたいと感じた。
祖父母の家にエアコンはなかった。平成初期ゆえ今ほど普及していなかったし、そもそも要らないともいえる。都心とは違い、田舎の夏には涼しさがあるのだ。そういう体感が否応なく私の中にあるのだろう。普段、都心に住む中でも、西日がきつくなるまではなるべく冷房を付けずにいる。社会的には否定されることかもしれない。しかし冷房が嫌いなのではない。じとっとした暑さの中、時折揺らぐ風鈴の音と、遠くに蝉時雨を耳にしながら、扇風機の前で涼むのが好きなのだ。
夕方になり買い物に出かければ、近所の軒下から蚊取り線香の匂いが漂う。蚊が多い証拠のはずなのに、どうして気分が落ち着くのだろう。空には蜻蛉を見る日もある。品川区に住んでいた時には全く見なかった。全く。某区に引っ越してから少しは見かけるようになり、安堵したのを覚えている。
下駄にも、暑さにも、蚊取り線香にも、蜻蛉にも、夏の記憶がある。さまざまな物を通して、あの無垢な多幸感自体が想起され、生活の中に再発見する。何も、われわれは合理性を遂行するために生きているわけではない。いま、ここが豊かな暮らしかどうかを見つめていきたいと思う。
三年小暑/実体
ペットボトルからラベルがなくなりつつあるのは素晴らしいことだと思う。本質的に全く不要。しかしその売り文句は頓珍漢なものばかりだ。それほど環境負荷を気にするならば、そもそもなぜペットボトル飲料の販売を進めるのか。手間が云々というが、緑茶であればただ水におくだけで飲めるようになる。風味は、淹れてから数日経ったようなものとは比較にならない。新茶であれば格別。「宵越しのお茶は飲むな」の言い伝えも、今や昔なのだろう。
水道水はもちろんのこと、浄水と比べてもミネラルウォーターはやはり美味しい。しかも外で飲み物を買おうと思うと最も手頃だ。以前はよくお茶を、各社の飲み比べをしては選り好みするほどに飲んでいた。しかし日常的に淹れるようになり、どれも美味しく感じられなくなってしまった。そうして渋々ミネラルウォーターを手に取るようになり、ようやく気付くことができた。無理をして常に「お茶」を飲もうとする必要はない。つまり、その時々の状況に応じた最適な選択肢が、既に用意されている。
料理する気になれないからと、ついコンビニエンスストアに足を運んでいた。こうして風味も栄養も経済性もない「食事」を取っていた。家庭を持つ人の中では、「食事」の体裁を整えるためにレトルトの封を切ると聞き及ぶ。われわれは何を食べているのだろう。本来は人類を人類たらしめる行為であり、人類としての根源的な喜びであったはずだ。記号化の果てに、見下し、押し付け合い、無駄なものとされた。こうした風潮の元で取り戻すべきは、形式にとらわれない、本質的な意味だろう。今、料理するのが億劫な時には、それに適した料理をしている。例えば、葱を散らした素うどんや、アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ。冷やご飯があるならば雑炊もいい。これなら、五分先の店まで買いに出かけるよりも手間が掛からない。味は無論。
平たくいえば、方便に惑わされてはならないということだ。だが、どうもこの頃は方便が内面化されている気がしてならない。ただ消費するだけならば、個人の問題ゆえ立ち入るべきではないかもしれない。しかし彼らがデザイナーであるならば、デザインが「方便の潤滑剤」となってしまう。われわれは記号ではなく、その実体を作ることが責務であることを、忘れてはならない。
三年夏至/雨の日
昨年実施した展示会は、準備期間が二年以上と長期に及んだ。研究室の卒業生の有志で開催したため、初めのうちは大学や家に集まり、参加者が増えてきてからは中央駅の貸し会議室で話し合うようになった。情報通信機器が生活の中心に浸透していくのと引き換えに、何かを見失っているのではないか。そのような実感から始まった題材であり、いかにすれば情報技術の発展と生活空間の豊かさを両立できるか、そのコンセプトをまとめることに苦心していた。
話し合いを続けるうちに体感的に気付いてきたのは、まさしく、そのわれわれがいた空間の息苦しさだ。無思考に用いられた費用の掛からない工業用素材や、印刷で再現された偽の自然素材に囲まれた会議室。確かに便利ではある。しかしこのような場所で、果たして主題を深められるだろうか。
そこで新宿御苑にシートを引き、屋外で話し合ってみることにした。虫も片付けもいるが、何より楽しめ、明るく話し合えたように感じた。さらに調べてみると、都営の日本庭園内に「貸し茶室」があることを知った。それからはさまざまな庭園を巡り、茶室に集うことになる。一度も会議室に戻ることはなかった。あの経験は忘れることがないし、個々の作品にも多かれ少なかれ反映されているといえるだろう。何より、情報通信技術の発展による生活の未来を題材にした展示会の話し合いを、日本庭園の茶室で行ったことが刺激的に思う。この点は、間違いなく、われわれが初めてのことだろう。
雨の日の六義園を思い出す。せっかく出掛けるというのにと、憂鬱にしながら電車に揺られた。そうして一歩庭園に踏み入れる。そこでは、雨によって彩られた庭園が、雨の美しさを引き出していた。
意外なことに、都営以外も含めれば庭園内の貸し茶室は多くある。また意外なことに、早くに埋まってしまい予約がなかなか取りづらい。そういうわけで再訪することになる。春には竹藪の影を歩き、水面に涼んだ殿ヶ谷戸庭園。秋になれば、茶室をつつむ麗しい紅葉が辺りを夕陽色に染めていた。われわれ日本人が最も深めてきたはずの、そして間違いなく失われつつある、季節という発見を、発見した。
庭園を散策し、茶室に佇む中で気付くことがあった。消火栓や室外機は簾に覆われ、鉄製の傘立ては板に囲まれ、空調設備は格子に隠される。LEDのシーリングライトをつけてみれば、空間の風流が全く失われる。われわれが生きる現代の、デザインを通して確かに発展に関与しているモダニズム様式と、多かれ少なかれ否定してきた古典様式と並列して評価した時に、果たして、疑問の余地なく、豊かな生活に向かっているといえるだろうか。とはいえ古典様式に回帰することはないし、そのことを肯定するつもりもない。様式とは、その時代や場所に固有の、効率のよい生産手段に合わせて、いわば後天的に構成されるものなのだから。しかし現在というだけで肯定し、過去というだけで否定するのもまた適切な態度ではない。そう体感せざるを得なかった。
この頃、雨の日が続く。それも大雨が。しかし気候変動による異常気象でも、環境が気まぐれに引き起こした天候でもない。夏至の中頃に続く大雨には、半夏雨という言葉があった。社会とは裏腹に悠然とした自然、そこから生み出された文化には驚かされる。不平不満を言いながら「小さな窓」を覗くばかりでなく、窓越しに空を眺めながら移り行く季節に思いを馳せるのも、ただただ良いように、今は思う。
三年芒種/そのもの
キンミヤ焼酎のハイボールをよく呑む。いつもレモンを絞っているので、レモン入りの炭酸水を買ってみたところ妙に美味しくない。ラベルをよく見てみるとレモン果汁が入っていないことに気付く。ただ炭酸水にレモンを絞るだけのものすら香料で再現されていた。それなら、自分で絞ればいい。そのものの楽しみが無いなら意味がないのだから。まさか生産技術の限界ではないだろう。つまり社会がそれを選択しているならば、現代の限界という他ない。
素うどんというと貧相な料理として扱われるし、肉やら隠し味やら入っていれば豪華な料理として持てはやされる。しかし、丁寧にだしをとった手作りのつゆで茹でたてを食べてみれば、薬味の他に何も入れる必要などないと思えるほどに美味しいものだ。逆に、つゆが傷んでいる時にいろいろな具材や調味料を入れて味を整えることもあるだろう。どうにも、そのものの価値ではなく、記号としての上位性によって良し悪しが判断されているように思う。食事であれば美味しいか、口にして豊かに思えるか、それが最も重要なはずなのに。
たまには飴でも買おうと思い、お菓子売り場を眺める。すると味の特徴よりもいろいろな効果効能が目に付く。お菓子にすら機能性が求められるのだろうか。せっかくお菓子を食べるのだから、単純に美味しく楽しめればいい。ただ砂糖を固めたような「意識の低い飴」がよかったのに。しかしこういうことは飴に限らないように思う。品質が高まるのはいいことだが、いろいろと付加していった結果、そのものの姿が失われていることがある。
ある時、手羽元を煮ると美味しいという話をしていたら、食べづらさが逆に体験を良くするのだろうなどと言う人がいた。正しくは、骨から出汁が出るから。物事をいちいち観念的に捉える風潮には辟易する。大抵、単純な事実に気付かずに、見当違いな見方をしている。そのものの本質を捉えたつもりでいながら、実際の姿すら捉えられていない。
もし食料自給率を憂うなら、パスタやパンばかりでなく米を中心とした和食を食べるべきだろう。「和食だから」ではない。伝統食だからである。その土地において生産効率が良い食材を元にして美味しさを追求し、結果として定着した料理を「伝統食」と呼ぶようになったのだ。伝統は伝統だからというだけで続いてきたのではなく、合理的だからこそ伝統となるまで続いてきた。ただ数字だけを比較したり、いたずらに相対化したりせず、そのものの意味をなおざりにしないようにしたい。
三年小満/単なる自然
オフィスのデザインを行うにあたって、壁紙のショールームに足を運んだ時のことは忘れない。さまざまな模様が用意されるだけでなく、木材、石材、金属、あらゆる材料の種類ごとの見た目や触り心地、経年変化による風合いの有無までも、極めて高度に「印刷物」として再現されていた。その頃は、情報通信技術の進化と共に、物質的な空間や身体を通した人と人、人と環境との繋がりが希薄になりつつある状況について思索していた。その中で物理的な空間の価値を対比的に再発見していくわけだが、それを定義する身の回りの自然素材が実は「テクスチャー」だったことを目の当たりにし、われわれは既にVR空間にいたのかと諦観した。
さらに空調機器で整えられた密閉空間の中で、綿を置き換えたナイロン製の服を着て、木目のついた樹脂製の皿に並べたカニカマやら何やらをウレタン塗装の箸で食べ、香料だけの炭酸水で割った酒や、果汁の入らないフルーツジュースを飲み、イヤホン越しに外部音を取り込みながら、画面越しに人とコミュニケーションを取る。この頃、天窓を再現した照明が普及し始めた。いよいよ「お天道様」までも仮想的なものになるのだろうか。
断熱性、防音性、清掃性、耐久性、経済性等々、いわば「合理性」のために、周囲の環境、すなわち自然を遮断した上で、元の環境、理想化された自然をバーチャルに再現する。現代の生活空間はディストピア的ホワイトキューブ以外の何物でもなくなった。ここで注目したいことは、それでも「合理性」が剥き出しになった文字通りのホワイトキューブではなく、さまざまな製品を通して、擬似的な自然を愛でるように暮らしている点だ。
つまり、基本に自然がある。その根源的な感覚、本能的な価値基準、動物としてのア・プリオリな欲求は事実として存在している。現代社会の資源を、局所的な目先の億劫さの解消ばかりに使い続けるべきだろうか。洞窟暮らしに退行する必要はない。しかし擬似的な自然は擬似的なものでしかなく、自然が含んでいる豊かさの真の姿をも含むものではない。
万物の成長が著しく生命が天地に満ち始める、小満。花粉も収まり梅雨になる手前、夏日へと移り変わる最中の気持ちがいい季節だ。窓を開けてみる。春夏の匂いがする風通しのいい部屋の中、陽の光の下で畳に寝転がり、水出しした新茶を飲みながら読書する。本物の気候、本物の素材。これくらいの幸せ、単なる自然を、もう一度見直してもいい。少しくらい虫が飛んでいても、近所の子供の遊び声が聞こえてきても、西日に汗ばんでも、いいじゃないか。
三年立夏/知りたいこと
洗濯機が壊れた。保証期間はいつまでか、修理の手配はどうするのか、しばらく着る服はあるか。ただただ億劫になってくる。だからこそ、この時にしか気付けないことを探し始める。意外にも近所にはいくつもコインランドリーがあった。状況をWebで確認できる小綺麗な店があると思えば、昔ながらの縦型洗濯機が並んだ吹きさらしの店もある。後者の方が好みだ。洗濯機の修理に立ち会うにあたっても、分解手順を観察し、機構設計を覗き見て、交換された部品を手に取る。やりづらい客だったろうとは、思う。
私の興味、あるいは行動原理を突き詰めてみると、知らないことに対する知的好奇心、つまり「未知」に対する魅力なのだと気付く。だからこそ、身の回りの物事の原理を知ることに対して執着を持ってしまう。
デザインについてもそうだった。美術館や企画展に足繁く通って体感し、本を読み漁っては理論や背景を学ぶ。少しずつ知っていくと同時に、知らないことが見つかる。学生時分、デザインよりもデザイン評論をやればいいと言われたことがあったが無理もない。しかし理論の構築だけでは知り得ない、制作して初めて知れることがデザインにはある。作る中で「そうか、こういうことか」と実感する瞬間が。
知ることは、知らないことがなくなっていくこと。そもそも興味を抱かないことは知らないままでいい。自分自身が興味を持てるような「未知」がなくなってしまうのではないか、そう一抹の寂しさを覚え始め、この頃は「知らないままに楽しめること」も大切にしたいと思うようになった。
それは、どうやら音楽のようだ。音楽には、何より先に心を揺さぶる、あるいはデザインには及ばないような力がある。『ハリー・ポッターと賢者の石』におけるアルバス・ダンブルドアの「ああ、音楽は何にもまさる魔法じゃ」の台詞はつよく覚えている。ただ、私はいわゆる「音楽好き」ではない。かといってオーディオマニアでもない。どの楽器も弾けないどころか五線譜は読めず、楽曲の成り立ちや構造も知らない。私にとって、珍しく普通に消費できているのが音楽だ。
それほど興味があるなら、何か手を出してみたほうがいいだろうか。すると、日々聞いている流行りのJ-POPを批評的に聞かなくなったり、はたまたクラシック音楽やヒップホップを褒めそやしたりと、そういう私が想像できてしまうのだ。
やはり、知りたいことのままにしておこう。そういうことが、ひとつくらい残ったままでもいい。
三年穀雨/唯物論
批評空間、詩的世界、等々。文章によって形作られる「空間」とは、われわれが実在するデカルト的三次元空間による比喩だ。しかし、それは(脳科学的にいえば)クオリアでしかなく、便宜上の共通認識として見立てているに過ぎない。つまり「比喩」である。空間とは比喩であり、文章によって形作られる空間は、比喩による比喩。そういう言葉遊びが好きだ。
同様に「魂」も「神」も比喩だといってしまえばそれまでだが、この断定には誤解しか生まれない。しかしながら、適切に理解するには大変な労力が掛かる。従っていずれも単純化のためにある種の実在として扱われていて、だからこそ実在しないと言い張ることができる。要は人々の主観上には実在するし、実在するものとして扱うための媒介となる物質も用意されるが、物理的には実在しない。これは「金」や「時」にも同じことがいえるだろう。
空間論、時間論、認知、経済等、さまざまなことを知れば知るほど、むしろ形而上学的な存在こそが実体であり、具象、実在、物質といったア・プリオリな存在、当然のものとして了承されている前提の方が仮想なのではないか、そう思うことがあった。難しく考えるまでもなく、映画でいえば『インセプション』をはじめ、『メン・イン・ブラック』や『ドラえもん のび太の創世日記』でも通底している。一方で、地球、太陽系、天の川銀河、おとめ座銀河団といった、延長的な宇宙空間は確かに実在している。夜空を見上げれば分かることだ。そのお陰でニヒリズムに陥ることなく、物質的、物理的な空間を諦めなかったように思う。とはいえ、このことに対して「(物理空間を)蔑ろには決してしないし、プロダクトデザインをやめない。私たちは常に演じる生き物なのだから」とも書き付けており、ある種の実存的不安があったのは間違いない。
そんな中でマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』を読み、冒頭でこのような認識はそもそも自分自身固有のものではなく、ポストモダン思想の影響下にあったことを知った。まずそのことに驚き、実在に対する思考の膠着がなくなったのを覚えている。
プロダクトデザイナーは最終的には人工物の形状の決定に対する技術と責任があり、物質の存在に規定される職業といっても過言ではない。だからといって、唯物論者でなければならないわけではない。
三年清明/私という現象
私は、私のことが嫌だった。しかしデザインが創造行為である以上、自分自身から逃れることはできない。これは表現主義的であるということではなく、実存に基づくということだ。このことに気付き、自分自身と向き合わざるを得なくなった。
メタ認知によって自分自身を理解したと言いたいところだが、私の場合はむしろメタ認知が過ぎていた。主観を意識した途端に客観視が入ってしまう。客観的に考えない方法はないのだろうか、と。こうして暗中模索していたように思う。しかしある時、逆に考えれば、主観を意識しないときこそ真の意味での主観状態といえることに気付いた。つまり客観から降り、自分自身に没入すればよい。この発想が導けたのは大きかった。
他人は変えられないが自分自身は変えられる、といわれる。しかし本当のところは、自分自身か他人かは関係なく、変えようとしたものが変わらないのではないか。私についていえば、たしかに自分自身を変えようとしても変わらなかった。これまで人生の上で、最も無意味なものの一つが「決意」だった。決意は何も変えない。しかし、それまでにも変わってきたことならあった。そのことを考えてみると、変化の切っ掛けは淘汰だったように思う。つまり、変わらざるを得ないことだけが変わる。従って自分自身を変えたいと思えば、意思的に決意するのではなく、変わらない自分自身を淘汰しなければならない。それは自分自身を追い込むという意味ではなく、生来の特性や社会的な確実性を考えさせないということだ。
いろいろと考え尽くした結果、振り返ってみれば「考えず、行動する」というだけではあるのだが…。いずれにせよ、今では自分自身のことを嫌には思わない。ただ、自分自身に自信を持てるようになったというよりは、私が私であることに対する諦めがついたという方が正しいかもしれない。あるいは私という現象を帰納した上で、発見された自分自身から演繹しているだけなのかもしれない。
三年春分/言葉にする
「過去分詞」は時制的過去を表さないし、「上流工程」は階級の上位性を表さない。言葉は時に、表面的な見え方によって元の意味内容から離れた内容を誘発する。この頃はそれに端を発するいざこざを目にすることが多く、辟易している。広く理解されるべく言い換えるにあたり、しばしば比喩が使われるが、そこでも同様の現象が生じている。時によっては、比喩している事柄ではなく、その比喩表現における意味内容の議論へと向かっていく。不毛という他ない。ところで、難解めいた言葉を簡単な言葉で言い換えていくとその本性が現れるように思う。知性のひけらかしが目的化している人がいれば、自分自身を煙に巻いている人もいる。言葉に振り回されないようにと、自戒する。
子供の頃には漫画を読むものが批判され、小説が持て囃された。しかし、かつて良家の子女は小説を読んではいけなかったと聞く。そもそも「小説」とは、四書五経を始めとする、天下国家を論じた文章を指す「大説」に対して、取るに足らない小さな説のことを指す言葉である。さらに遡れば、プラトンは『パイドロス』において、話し言葉に対して書き言葉を、すなわち「書物自体」を批判したそうだ。このような輪廻的現象から、現在の書籍や書式を一方的に肯定することはできる。逆説的に、言葉によって形作られる手前の現象自体に没入するためには、言葉による思考の放棄が必要といえるだろう。見たままに描くのが難しいように、そのままに言葉にするのは難しい。実際、言語化されれば多かれ少なかれ相対化されていて、内面化すれば言語化しづらくなるように思う。デザイナーは、自分自身のデザインを言葉にすることが大切だといわれる。確かに、デザインの上では、現象と言葉の振り子の中で、思考しているように感じる。
デザインに対して無自覚な人のデザインには惹かれない。デザインに限らず、その行為や表現の中にどのような思想があるかが問われている。自分自身の思想の位置付けを知るべく、最終的には哲学に行き着く。しかし哲学もまた言葉が前提となる。言葉が哲学の手段であるならば、言葉で表現された思想は、あくまでその一形態なのかもしれない。数式や素描でしか表せない、そういった例はいくつもある。ただ隣にいるだけで心が通じることがある。それもまた、言葉にする、ということなのだろう。
三年啓蟄/違う
目的地を尋ねれば最短の道のりが表示される。それに従い、南北線に乗っていればいい。しかし昼食がまだなので、乗り換えできる駅で降りることにした。学生の頃に見慣れた神楽坂下。JR飯田橋駅に向かうと見慣れない駅舎が目の前に。原宿駅すら建て替えられたのだから仕方がない。しかし、心なしか反対側の高層マンションに似せているのは、どういう意味があるのだろう。
昼食を済ましたので、提案の通り有楽町線へ向かうべきところ、東京大神宮があることを思い出す。去年は念願のお伊勢参りができた。それなら年明けのお参りに向かうべきと思い、足を運ぶ。作法通りでない手水の方法にも慣れてきたが、いつか元通りになるのか、それともこのまま定着するのか。この一年、いくつかの神社を参拝したが、ここにはいろいろな変化があった。初めの頃は中止されており、そのうち塩ビのパイプから流れ続けるようになった。それがいつからか竹に変わり、落ち着いたように思う。一度、近づくと水が一斉に勢いよく流れ出てきたことがあったが、あれには驚いた。手水舎の付近にセンサーが付いていたようだ。これが流行らなくてよかった。
少し駅から離れたのでもう一度目的地を尋ねる。元のルートが最短。しかし、歩いても無理がない距離だと分かる。時間は掛かるが、電車代は掛からない。街中であれば面白みもないが、皇居沿いを歩いていくのは面白そうだ。いろいろと意味のない正当化をして、とにかく、外濠から内濠に向かう。
外苑や北の丸公園、江戸城跡は歩いたことがあったが、その反対側は初めてだ。東京に通うようになって長いのに、内濠の遊歩道も知らなかった。こんな時勢とはいえ、春の陽気に誘われたのかたくさんの人がいる。私もその一人なのだけど。梅の花は散りかけて、桜の蕾は膨らみかける。鳥も羽虫も飛び交う。子犬の散歩を見かけたと思えば、小猿の散歩も見かける。気付けば看板を頼りに、最短の道のりからは外れていた。画面を非表示にして。
しばらくすると、国会議事堂が見えてくる。国会ってここにあったのか。当たり前だ。目的地は国立国会図書館なのだから。目的だけを頭に入れ、システムに従ってだけいると、そういう当然のことを思い浮かべられなくなるものだ。報道では議事堂を正面から映すが、図書館からは真横に見る。違う角度から見ると、見慣れたものも新鮮に感じた。
こういうことは、Siriには理解できないのだろう。
三年雨水/批評する必要
現代の庶民は工業化住宅に住む。耐震性や耐火性は高く、断熱性も防音性も優れる。しかしどれも通り一遍の間取りで、見回せば木目は印刷ばかり。街並みはほとんど何の感慨もない。経済性によって、何かを諦めている。こうしてかつての民家に対する郷愁、憧れ、見直しが起こる。もはや新しく作る必要はないのではないか、と。
しかし民家もまた、現代と同様に近隣住宅と類似の様式を経済的観点から採用していた。時代によって淘汰されてもなお受け継がれている美しい古民家も、始まりは時代の要請がもたらしたかたちだった。産業革命による量産体制に適合した美の追求で発展したモダニズムの只中に生きるわれわれも、生まれ育った自然的環境が人に創造性を与えて発展した古典様式の中に生きた先人も、それぞれが「現在」の影響下にあるといえる。
当然、創造者は主体的に創作している。しかし関わりのないところで、偶然でも恣意でもなく同時期に似たものが作られることがある。かたちは必ずしも「デザイナーのセンス」が作り上げるのではなく、文化によって形成されていく。自然の、国の、民族の、企業の、顧客の、分野の、等々。そのような文化的文脈が「時代」として凝縮する。そして、その時代の思想が作らせる。だからこそ、創造者は、自分自身の行為の立ち位置を見極めて客観的に見る、すなわち自己批評する必要がある。創作上の自意識は、必ずしも主体的とはいえないのだ。
創造者は、批評されることも然る事ながら、批評することを避けがちだ。ともするとその行為が余計であるかのように捉える。しかし創造と批評は共存関係にある。何より、創造は批評を促し、批評が批評対象をあげつらうと同時に、批評者を批評するよう要請する。内面化すれば、まさしく自己批評だ。だからこそ、最初の批評者は、創造者自身でなければならない。
最新の経済的選択が最善であるという絶対的幻想と、その反発としての古典様式への郷愁。しかしそこに溺れず、時代と向き合いながら作ることこそが、その悩みの先へと連れていく。それは創造上の制約でありながら、発想元とも考えられるだろう。あらゆる「古典」は、いつの時代もそのように生まれてきた。その時代の文脈の中において、未来によって問われるような創作をしていくことが課されている。他でもない、創造者自身の技術と個性によって。
三年立春/理由がない
なぜデザインが必要なのかと問われた時、デザイナーは「問題解決の手段として有効だから」などと説明する。その通りである。しかし当のデザイナー自身にとって、これはあくまで社会あるいは属する環境に対する説得のための弁だ。デザイナーにとって、デザインは目的。もしそうでないなら、より相応しい方法をとることができる。問題解決の手段はデザインに限らないし、表現の方法も然り。ましてや効率よく対価を得るためなら、デザイナー以外の職業の方が賢明だろう。
喜びばかりではない。時にデザインのことが理解されず苦しみ、もはやデザインしない方がよいのではないかと感じることさえある。それでもデザインに報いるべく、企画に対して手段として活用し、誠実に取り組む。私にとってデザインはそういうものだ。
時になぜデザインしているのかと尋ねられるが、それこそが理由であり、もはや「理由がない」のかもしれない。じっくり話せるときはそういう風に説明するのだが、しばしば訝しがられ、何か理由があるはずだと返されてしまう。理由がないことを受け入れられないのだろうか。長いこと、私にはその理由の方が分からなかった。しかしある時、理由を問われた際には(暗黙的に)経済性の説明を期待されているのだと気付いた。彼は理想をふりかざしている。何の得もしないはずがない。だからこそ、何か理由があるに違いない、と。こうして「理由」すなわち「経済的な動機」が、実際とは無関係に立ち現れてくる。
それでもなお、私がデザインする理由に踏み込むならば、つまり「デザインを夢に持ったから」というほかない。
夢を見る。それこそが、時に不合理に追い込まれてなお、自分自身を奮い立たせる動機であり、根拠であり、支えとなる。最も重要な点は、主観的・客観的に明々白々な、すなわち「経済的な動機」からさえ目下はずれてみえる己の行動を支える空虚が、夢であるということだ。そして、夢は叶う。だから夢を見なければならない。夢を見続けなければならない。
夢とは、本人にとって非経済的な理由といえる。夢と理由は、表裏一体。逆説的に、経済性を求めた途端に夢は理由に成り下がってしまう。誤っているとはいわないが、このことを受け入れなければならないと思う。自分自身が、夢のない大人になってしまわないように。
「なぜあなたはデザインするのですか?」「それが私の仕事ですから」
三年大寒/季節に気付く
いちばん寒い時期だからこそ、冬の終わりが近いことに思いを馳せる。あんかけうどんや鍋料理を食べるのも、寝る前に湯たんぽを仕込み、暖かいほうじ茶を飲むのももう少し。そんな、子供の頃には感じなかった一抹の寂しささえ覚えるようになったが、不満はない。大人になり、季節は巡ること、季節には季節の楽しみがあることを知ったから。戸棚、いや、ポリプロピレンケースにしまってある、明るい色味の服が目に留まる。
冬の終わりとは、花粉の飛散の始まり。私はひどい花粉症で、目も、鼻も、喉もやられる。毎年、やられてから花粉対策し始めるのだから、我ながらあきれる。春は憂鬱の季節。しかし去年から常日頃マスクを着けるようになったため、今年はそれほど花粉を恐れなくて済んでいる。思わぬ副産物。それに、暖かくなればきっと感染症の状況も落ち着くだろうとも思い、例年より純粋に春の訪れを待ちわびれている。春は喜びの季節。
ある時から、それぞれの季節による不都合をひとつ受け入れることにした。それから、季節に気付けるようになった。これは大きな変化だった。
この頃は春がなくなった、秋がなくなったとよくいわれる。しかし実際は季節がなくなったのではなく、季節を知らなくなっているのだと思う。なぜか。現代の住宅は断熱性も防音性も優れ、家電もあれこれと考えることなく扱える。外気にも陽の光にも関わらず、一定な環境の生活空間を作り出せる。人為的に均質な環境での暮らし。その結果、季節を感じる必要性、余地がなくなったからではないか。不思議なことに、そういう「夢のような」暮らしが実現しているにも関わらず、どうにも気候に対する苦情ばかりが交わされているように感じる。寒いと思えば暑くして、暑いと思えば寒くする。生活環境の快適性を追求した結果、不快さばかりを気にするように習慣付けられているのかもしれない。そのことを、今に生きるデザイナーとして自覚しなければならないと思う。間違いなく、この価値観にはデザインが関与してきたのだから。
そういうわけで、ここしばらくは、自らが生活の中で季節を感じ、楽しむよう意識している。この寒さもあと少し、そう過ごそうと思う。
三年小寒/正月の意味
今年の正月は初めて実家に帰らなかった。残念な気持ちはありつつも、帰省しなければ全く落ち着かないこともなく、いつもと変わらず一日が終わり、新年を迎えるだろうと思っていた。しかしいざ一人で大晦日を迎えてみると、どうにも正月気分にならない。正月飾りもお節料理も、準備されていたものだったことを知る。実家を出てから長くなり、暮らしの中での発見ももうないものかと感じていたが、まだまだ知らないことが潜んでいる。それに気付けたのだから、帰省できなかったことも、これはこれで悪くない。
買い出しのついでに正月飾りを探してみると、どれも国産ではないことに気付く。一般的な工業製品であれば生産国はそれほど気にしないが、正月飾りとなるとしっくりこない。だからといってもう大晦日になってしまったし、何よりこういう社会情勢なのだから、今からあちこちを探し回るわけにもいかない。来年は国産のものを探そうと決めた。それと、鏡餅も樹脂のケースではなく実物に。
年が明けたところで、「リモート初詣」なる言葉を耳にした。今時の問題解決と持てはやされるのも分かるが、その役割は神棚にあるのではないのだろうかとも思った。
お神札やお守りは毎年新しいものを受けるよういわれる。それを以って「有効期限は一年」と表現されることもあるが、工業製品ではないので、そのように「設計」されているわけではない。(神社の経済事情だといってしまうのは簡単だけれど、そう捉えたところで何も変わらない。)私が思うに、神社を効率よく最短で参拝する人はいない。祈念に向かう中で、境内を歩きながら、それまでのこと、これからのことを自然に考える。つまり、反省する。そういう、生活を反芻する時間が誰しもせめて一年に一度は必要だ。ただ、このような説明が全ての人にしっくりくるとは限らないので、「初詣に訪れましょう」「(それぞれの願いごとに紐付いた)新しいお守りに取り替えましょう」となっている。いわば、祈りのサブスクリプション。これが、近代的な自己啓発や生産性の技術としてではなく、文化的に脈々となされてきたことが面白いと思う。
松の内が明けて正月飾りを片付けると、不思議と、気持ちを新たにしていた。例年のような正月にはならなかったが、例年よりも正月の意味に気付くことができた気がした。