逃避行
七年立秋
小学生の頃に幼稚園を懐かしむことはなかった。しかし高校生にもなれば、かつて熱中したテレビゲームを再び遊んでみたり、卒業アルバムを開いて以前を振り返ってみたりと、過去を懐かしむ事があったように思う。懐かしさとは、時間の距離によって隔てられた「今」から、ふと「昔」に帰ることで生まれる。時を進むほど多くの「昔」を抱くのだから、幼い頃に「懐かしさ」を理解できなかったのも無理はない。
大学生になると足繁く映画館に通うようになり、頻度は落ちたものの未だ趣味のひとつとしている。しかしどうにも、あの頃に響いた映画の方を思い出しがちだ。特に飲み会の帰り道、ひとり酔い心地の時に顕著になる。そうなると、どれか見返すわけでも新しく観始めるわけでもなく、当時の予告編を見ては懐かしみ、その思い出に浸ってしまう。新たな鑑賞の体験よりも、かつて鑑賞した記憶の反芻の方が優先されるとは。
思えば遠く、さまざまな思い出と繋がり続けられるような気がして、今や郷愁に訴えるコンテンツを好き好むことも少なくない。私も歳を重ねたということか。そうして懐かしさを誰かに語ろうとすると、たちまち過去は現在の一部として「現在の出来事」と対立し始め、われわれに後ろ向きな態度をもたらす。だからこそ、懐かしさを克服するべく、過去に惹かれる自分を抑えなければならない。それには、ある種の自己矛盾を伴うだろう。思い出と向き合うだけでなく、相対化することさえ必要になるのだから。私たちは「20世紀博」で暮らしてはならないのだ。
だからこそ、思い出を共有しないことで生まれる価値がある。この頃、あらゆる行動は行動時のためでなく、あたかもその先の共有に向けた手段かのようだ。そこで、あえて誰とも共有せずにただ浸ってみなさい。かれは一時的な社会的優位性から得られる喜びと比較するに余りある、主観的価値を見付けるだろう。思い出は実在せず、自分自身のための観念的空間として、個人の記憶の中に存在するのだから。
思い出が心に浮かんだ理由は、思い出せないかもしれないが。