三年清明/私という現象

私は、私のことが嫌だった。しかしデザインが創造行為である以上、自分自身から逃れることはできない。これは表現主義的であるということではなく、実存に基づくということだ。このことに気付き、自分自身と向き合わざるを得なくなった。

メタ認知によって自分自身を理解したと言いたいところだが、私の場合はむしろメタ認知が過ぎていた。主観を意識した途端に客観視が入ってしまう。客観的に考えない方法はないのだろうか、と。こうして暗中模索していたように思う。しかしある時、逆に考えれば、主観を意識しないときこそ真の意味での主観状態といえることに気付いた。つまり客観から降り、自分自身に没入すればよい。この発想が導けたのは大きかった。

他人は変えられないが自分自身は変えられる、といわれる。しかし本当のところは、自分自身か他人かは関係なく、変えようとしたものが変わらないのではないか。私についていえば、たしかに自分自身を変えようとしても変わらなかった。これまで人生の上で、最も無意味なものの一つが「決意」だった。決意は何も変えない。しかし、それまでにも変わってきたことならあった。そのことを考えてみると、変化の切っ掛けは淘汰だったように思う。つまり、変わらざるを得ないことだけが変わる。従って自分自身を変えたいと思えば、意思的に決意するのではなく、変わらない自分自身を淘汰しなければならない。それは自分自身を追い込むという意味ではなく、生来の特性や社会的な確実性を考えさせないということだ。

いろいろと考え尽くした結果、振り返ってみれば「考えず、行動する」というだけではあるのだが…。いずれにせよ、今では自分自身のことを嫌には思わない。ただ、自分自身に自信を持てるようになったというよりは、私が私であることに対する諦めがついたという方が正しいかもしれない。あるいは私という現象を帰納した上で、発見された自分自身から演繹しているだけなのかもしれない。

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