三年雨水/批評する必要
現代の庶民は工業化住宅に住む。耐震性や耐火性は高く、断熱性も防音性も優れる。しかしどれも通り一遍の間取りで、見回せば木目は印刷ばかり。街並みはほとんど何の感慨もない。経済性によって、何かを諦めている。こうしてかつての民家に対する郷愁、憧れ、見直しが起こる。もはや新しく作る必要はないのではないか、と。
しかし民家もまた、現代と同様に近隣住宅と類似の様式を経済的観点から採用していた。時代によって淘汰されてもなお受け継がれている美しい古民家も、始まりは時代の要請がもたらしたかたちだった。産業革命による量産体制に適合した美の追求で発展したモダニズムの只中に生きるわれわれも、生まれ育った自然的環境が人に創造性を与えて発展した古典様式の中に生きた先人も、それぞれが「現在」の影響下にあるといえる。
当然、創造者は主体的に創作している。しかし関わりのないところで、偶然でも恣意でもなく同時期に似たものが作られることがある。かたちは必ずしも「デザイナーのセンス」が作り上げるのではなく、文化によって形成されていく。自然の、国の、民族の、企業の、顧客の、分野の、等々。そのような文化的文脈が「時代」として凝縮する。そして、その時代の思想が作らせる。だからこそ、創造者は、自分自身の行為の立ち位置を見極めて客観的に見る、すなわち自己批評する必要がある。創作上の自意識は、必ずしも主体的とはいえないのだ。
創造者は、批評されることも然る事ながら、批評することを避けがちだ。ともするとその行為が余計であるかのように捉える。しかし創造と批評は共存関係にある。何より、創造は批評を促し、批評が批評対象をあげつらうと同時に、批評者を批評するよう要請する。内面化すれば、まさしく自己批評だ。だからこそ、最初の批評者は、創造者自身でなければならない。
最新の経済的選択が最善であるという絶対的幻想と、その反発としての古典様式への郷愁。しかしそこに溺れず、時代と向き合いながら作ることこそが、その悩みの先へと連れていく。それは創造上の制約でありながら、発想元とも考えられるだろう。あらゆる「古典」は、いつの時代もそのように生まれてきた。その時代の文脈の中において、未来によって問われるような創作をしていくことが課されている。他でもない、創造者自身の技術と個性によって。