三年小寒/正月の意味
今年の正月は初めて実家に帰らなかった。残念な気持ちはありつつも、帰省しなければ全く落ち着かないこともなく、いつもと変わらず一日が終わり、新年を迎えるだろうと思っていた。しかしいざ一人で大晦日を迎えてみると、どうにも正月気分にならない。正月飾りもお節料理も、準備されていたものだったことを知る。実家を出てから長くなり、暮らしの中での発見ももうないものかと感じていたが、まだまだ知らないことが潜んでいる。それに気付けたのだから、帰省できなかったことも、これはこれで悪くない。
買い出しのついでに正月飾りを探してみると、どれも国産ではないことに気付く。一般的な工業製品であれば生産国はそれほど気にしないが、正月飾りとなるとしっくりこない。だからといってもう大晦日になってしまったし、何よりこういう社会情勢なのだから、今からあちこちを探し回るわけにもいかない。来年は国産のものを探そうと決めた。それと、鏡餅も樹脂のケースではなく実物に。
年が明けたところで、「リモート初詣」なる言葉を耳にした。今時の問題解決と持てはやされるのも分かるが、その役割は神棚にあるのではないのだろうかとも思った。
お神札やお守りは毎年新しいものを受けるよういわれる。それを以って「有効期限は一年」と表現されることもあるが、工業製品ではないので、そのように「設計」されているわけではない。(神社の経済事情だといってしまうのは簡単だけれど、そう捉えたところで何も変わらない。)私が思うに、神社を効率よく最短で参拝する人はいない。祈念に向かう中で、境内を歩きながら、それまでのこと、これからのことを自然に考える。つまり、反省する。そういう、生活を反芻する時間が誰しもせめて一年に一度は必要だ。ただ、このような説明が全ての人にしっくりくるとは限らないので、「初詣に訪れましょう」「(それぞれの願いごとに紐付いた)新しいお守りに取り替えましょう」となっている。いわば、祈りのサブスクリプション。これが、近代的な自己啓発や生産性の技術としてではなく、文化的に脈々となされてきたことが面白いと思う。
松の内が明けて正月飾りを片付けると、不思議と、気持ちを新たにしていた。例年のような正月にはならなかったが、例年よりも正月の意味に気付くことができた気がした。