四年春分/新茶の季節
立春から数えて八十八夜が過ぎれば新茶の季節だ。新茶は「一番茶」とも呼ばれるように、その年に初めて摘み取られた茶葉を指す。それから成長した茶葉は二番茶、三番茶、四番茶と数えられ、通称「番茶」と呼ぶ。廉価で常飲には適しているが、新茶に比べて風味は落ちていく。そこで飲み方を変えるべく玄米を混ぜれば「玄米茶」に、焙煎すれば「焙じ茶」になる。従って玄米茶や焙じ茶は番茶が出回る秋から冬が旬であり、紅葉が色づく中の楽しみでもある。一方で緑茶に比べれば品質や価格が低く、贈答には適さないともいわれる。
そんなことは思いもしなかったかもしれない。いずれも緑茶と等しくペットボトルに詰められ、年中どこでも売られているのだから。単に好みの問題でしかなく、ひいては単に古い考えとして見下げるのも容易い。しかし自分自身の生まれ育った時代や環境の尺度だけで考えていては、その対象の本質には迫れない。ところで、一番茶を用いた玄米茶や焙じ茶も一部で出回っている。物は試しにと飲んでみれば、当然美味。比較的高価で、贈り物にも適するだろう。伝統的な価値基準が常に正しくあるとは限らず、考えなしに思い込み続けてもならない。
新茶の季節には、新茶を用いたペットボトル詰めの緑茶が出回る。試しに飲んでみれば風味が違うと分かるはずだ。あくまでペットボトル詰めに過ぎないのだが。さて、そう述べるならば家事負担の問題を挙げ、お茶には違いないのだからペットボトル詰めの方が合理的だと縷々肯定すべきだろうか。確かに記号の上ではその通りだろう。しかし、われわれは記号上の相対的な位置付けによる優劣を競っているわけではない。ここで話題としているのはその意味内容、すなわち実際のお茶である。
お茶は淹れてから時間を置けば風味は落ちていく。いわんや詰めればをや。私の感想だが、その風味はいせいぜい二、三煎目程度だろう。また、日常的にお茶を淹れていると、緑茶が手間なく淹れられるように加工されていると分かる。ペットボトル飲料の方が家事負担云々といった意見は、当座の議論のための決めつけに過ぎないのではないか。この頃、物事の価値判断が思弁に寄りすぎているように思う。画面の中の文字情報や画像に接し過ぎ、抽象化された対象と対象そのものを混同してやいないか。このことに意識的にならなければ、本質的な価値判断はますます難しくなるだろう。
ところで、なぜ私はこれほどまでに豪語しているのだろうか。そのようなつもりで書き始めたはずではなかったのだが…。疲れたので、お茶にしようと思う。