四年啓蟄/職業としての芸術
学生時分、東芝エレベータ株式会社主催の「未来エレベーターコンテスト2013」に提出した作品が審査員賞を受賞した。テーマは「エネルギー自律都市」。再生可能エネルギーが完成した未来都市を想定し、その余剰電力を都市自体に蓄電する、揚水発電ならぬ「揚都市発電」を提案した。エレベーターで都市自体を持ち上げ、位置エネルギーに変換するのだ。他の受賞作品が公開された際、私は化学エネルギーを用いるアイデアに驚かされた。私たちの議論における「化学的発想」の欠落に気付かされたのである。その原因は、物理の勉強をしてきた一方で、化学の勉強をしてこなかったからに他ならなかった。
最近のデザイン手法は客観性が強く謳われ、あたかも一定の法則に従って形が導出されるかのように印象付けられている。また「デザイン」と「アート」を対比して稚拙な二元論を展開し、デザインがアートと違って客観的なものであると断ずる表面的な解説も見受けられる。嘆かわしいことだ。確かに、私自身もデザインを知らない者にデザインについて説明するならば、その客観的性質を説明し、単なる主観ではないと理解を求めるだろう。デザイナーはただ当人が好きな形を好きなように描いているのではないと言い、ブルーノ・ムナーリの言葉を引用して、デザインとは「企画の美的要素も含めて設計すること」だと述べるだろう。
この前提には「デザインが芸術である」という事実がある。 アーツ・アンド・クラフツ運動からドイツ工作連盟、ロシア構成主義、バウハウスといった芸術運動の歴史を辿り、デザインの始まりが産業社会における美の創造にあると説明しても、新古典主義から十九世紀における建築様式の混乱の果てに、建築工法の発達及び産業建築を評価し生まれた国際様式の成立、そしてモダニズムの普及からポストモダンの提起と、建築様式の歴史に寄り添ったデザインの発展を説明しても構わない。ともかく、何ら比喩ではなく、デザインはまさに芸術そのものなのである。
この芸術はその性質上、経済合理性に基づき、さまざまな客観的手法を用いた、客観的説明が可能な造形が求められる。だからといって、その行為の全てに主観が含まれないわけではない。核となる発想を導くにあたって、客観を積み重ねた果てに自分自身が発露してしまうのだ。その意味で、デザインは間違いなく主観に基づくのである。だからこそ、自分自身が発想の上での限界となることを理解しなければならない。自分自身がいかに何も知らないかを知り、自分自身にレッテルを貼ることなく、研鑽を積まなければならない。