三年処暑/言葉の違い
「前」と「後」の前後関係を考えてみる。「前を向こう」「後ろを向くな」という言葉にも現れている通り、「前」は未来を、「後」は過去を示す。しかし「前に行った」「後で行く」といえば「前」は過去を、「後」は未来を示す。過去、現在、未来は時間軸を絶対的な基準としているが、前、後は相対的なものだ。従って、逆さに使うことができる。「前のことは忘れて、前を向きなさい。」
「左」と「右」もまた曖昧なものだ。中学生の頃、理科を学んでいて心臓の左右方向に混乱したのを覚えている。また、そもそも左右をすぐさま判断できない人がいると聞く。確かに、当然の共通認識と思い込んでいるが絶対的な基準はない。各辞書の語釈を比べてみると面白い。東西南北やアナログ時計、漢字の書き順、辞書自身のページ番号と、さまざまな説明が試みられている。
「99」と「100」の差は1である。「73」と「74」の差も1だ。ここに数学的な違いはなく、科学的分析においても当然違いはない。しかしあらゆる場面、株式市場や感染症対策といった淡々とした分析が求められる状況でさえ、われわれは十進法上の切りのいい数値に意味を持たせがちだ。客観的説明のために数字を用いているはずが、言葉として捉えているのである。
「得る」と「失う」は、現象として見れば全く同義だと思う。何かを得た時、何かを失っている。逆も然り。力学的エネルギーは保存される。では、なぜ人は喪失感に苛まれるのだろうか。もちろん、人の感情は現象全体を基準としているのではなく、自分自身を基準としているからだ。それが言葉の違いにも反映される。
「暑い」と「寒い」には、季節がもたらす豊かさが含まれていたはずだ。時には慈しみ、時には警戒する。しかし、この頃は「暑い」も「寒い」も同様にただ「不快」を示してはいないだろうか。無思考な快適さだけを求め、いずれは暑い、寒いの区別もなくなり、ただ「快」と「不快」の言葉だけで事足りてしまうのかもしれない。その兆候となる言葉が「エモい」だ。「感情が揺れ動いた」という内的現象自体を表現しているわけだが、そのままで言葉が成立するとは。本来、その内的現象の内容を表現するのが言葉ではなかったか。
人は言葉を通して考えており、考えている以上は言葉によって物事を捉えている。言葉によって、感情や現象は固定化するのである。もし違う言葉になってしまうなら、いっそ言葉にはせず、そのままにしておいた方がいいのかもしれない。正しい言葉を用いなければ、元々の感情や現象の意味内容が変わってしまうのだから。