三年霜降/自然な暮らし

数年前は品川区の外れに暮らしていた。決して手頃な賃料とはいえなかったが、その地域における相場を参考にして、低層の賃貸マンションを選んだ(単なる集合住宅に対するこの表現は好みではないが、ここでは標準的な言い回しに合わせる)。広さは二十平米程度。外観は小綺麗にまとまっており、オートロックや宅配ボックス、敷地内ゴミ置き場を備える。内廊下で快適な温度が保たれ、害虫被害もない。RC造により、断熱性、遮音性の優れた住環境。近くを鉄道が走るが、防音ガラスの窓を閉めれば騒音はほとんど聞こえない。場所も建物も十分な住居だった。

ある時、家族で祖母に会いに行くことになった。幼い頃には盆暮れ正月になれば帰省していたが、随分な田舎にあるため、成長するにつれてその頻度は減っていった。修了直後に行った時には、もうここに来ることもないのだろうと心した。美術館も映画館もなく、無印良品は疎か必需品以外の商店も望めないところなのだ。今回にしても何日も滞在することはないと思い、ひとときの懐かしさを味わったのち、家族を残して早々に都心に戻った。

いつもの暮らしに帰ってきて、自ら求め、合理的に選択したはずのこの住まいに対し、妙な違和感を覚えた。まるで狭い箱の中に押し込められているような体感があった。分厚いコンクリートに囲まれ、外から断絶させた空間。そこには人工素材の壁紙、印刷された木目の床材がテクスチャとして貼られている。周りを見渡せば、合板の家具、合成繊維の寝具。外を歩けば、排気の、室外機の、アスファルトの臭いがする。空気が澱んでいた。高い建物に視界が、街灯や窓明かりに空が遮られている。

つい先頃の田舎の中での体感が、否応なく思いだされた。遠くの野焼きの、草の、土の匂いがする。空気が澄んでいる。呼吸の度に、肺の中まで澄んでいくようだ。川のせせらぎを眺める。遠くの山々に囲まれる中で、遠くが見えることに気付く。昼間には無数の蜻蛉が空を舞い、夜には無数の星々が空を彩った。家に入れば、昭和期の建物ではあるが、空間は襖や障子、畳といった自然素材で作られ、代々と思われる家具や地域の日用品が並ぶ。窓は開け放して自然の風が流れ、自然の音が聞こえる。家族で夕食を取っていると、小さな雨蛙が一匹迷い込んできた。全てが連続している。心身が解放される心地がする。

田舎は「何もない場所」ではなかった。都会暮らしにはないものの全てがあった。私たちは、不自然な暮らしを強迫観念的に作り続けてきたのではないか。自然な暮らしの形とは、何なのか。

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