三年冬至/時間感覚

幼い頃に友達と遊びに出ようとすると、決まって「暗くなる前に帰りなさい」と言われた。冬になるとすぐに陽が落ちるのがもどかしかったように思う。夕暮れに染まる空から、帰宅時間が近いことを知った。定刻になれば防災無線から「夕焼け小焼け」が流れ、いよいよ家に帰ろうと別れた。

在宅勤務していると、だんだんと陽が暮れる様子が分かる。照明を付ける頃合いになり、退勤時間が近いことを知る。まるで幼い頃のように。一方、オフィスは均質な環境を作ろうとするため、自宅とは違って屋外の状況を体感しづらい。従って時刻に基づいて時刻を判断するしかない。もうこんな時間か、というわけだ。

明治五年に公布された改暦の布告により、我が国はグレゴリオ暦を採用し、現在の時刻制度に移行した。それ以前は天保暦を使用していたが、その特徴は「不定時法」にある。それは日の出と日の入りの約三十分前(明け六つ、暮れ六つ)の前後を「昼」と「夜」とした上で、それぞれを六等分して「一刻」の長さを決定する時刻制度である。季節によって、さらには一日の中でも時間の長さが変化するという、単純かつ合理的なものだ。要するに「明るい時」と「時刻上の昼」が一致する。農民はいうまでもなく日の光と共に働く。江戸っ子は早起きというが、町民もまた日の出日の入りに合わせて暮らした。それというのも、灯りの燃料となる菜種油が非常に高価であったのだ。何も数値的な時間概念が無かったわけではなく、定刻になれば「時の鐘」が全国津々浦々に鳴り響くよう整備されたし、不定時法の時間を刻む時計(和時計)も多く作られた。なお、天保暦は西洋天文学の成果を取り入れており、グレゴリオ暦同様に高精度なものであったという。生活上の、暦上の不都合によるものではなく、西洋化の一環において明治改暦が実施されたのである。

われわれは成長の、近代化の過程で一日の長さを等分する時間感覚を身に付け、今ではその数値情報無くして生活できないものとなっている。しかし、かつて時間感覚は数値的な情報ではなく、空の明るさ等に、すなわち環境的な状況に基づいていた。むしろ、それこそが日本の伝統的な時間感覚であったのだ。

空気以上に疑わない「時間」でさえ、絶対的なものではない。果たして、私は何に内包されているのだろうか。それを知ることが学び続ける目的であり、作り続ける動機であるように、この頃は思う。

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