三年穀雨/唯物論
批評空間、詩的世界、等々。文章によって形作られる「空間」とは、われわれが実在するデカルト的三次元空間による比喩だ。しかし、それは(脳科学的にいえば)クオリアでしかなく、便宜上の共通認識として見立てているに過ぎない。つまり「比喩」である。空間とは比喩であり、文章によって形作られる空間は、比喩による比喩。そういう言葉遊びが好きだ。
同様に「魂」も「神」も比喩だといってしまえばそれまでだが、この断定には誤解しか生まれない。しかしながら、適切に理解するには大変な労力が掛かる。従っていずれも単純化のためにある種の実在として扱われていて、だからこそ実在しないと言い張ることができる。要は人々の主観上には実在するし、実在するものとして扱うための媒介となる物質も用意されるが、物理的には実在しない。これは「金」や「時」にも同じことがいえるだろう。
空間論、時間論、認知、経済等、さまざまなことを知れば知るほど、むしろ形而上学的な存在こそが実体であり、具象、実在、物質といったア・プリオリな存在、当然のものとして了承されている前提の方が仮想なのではないか、そう思うことがあった。難しく考えるまでもなく、映画でいえば『インセプション』をはじめ、『メン・イン・ブラック』や『ドラえもん のび太の創世日記』でも通底している。一方で、地球、太陽系、天の川銀河、おとめ座銀河団といった、延長的な宇宙空間は確かに実在している。夜空を見上げれば分かることだ。そのお陰でニヒリズムに陥ることなく、物質的、物理的な空間を諦めなかったように思う。とはいえ、このことに対して「(物理空間を)蔑ろには決してしないし、プロダクトデザインをやめない。私たちは常に演じる生き物なのだから」とも書き付けており、ある種の実存的不安があったのは間違いない。
そんな中でマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』を読み、冒頭でこのような認識はそもそも自分自身固有のものではなく、ポストモダン思想の影響下にあったことを知った。まずそのことに驚き、実在に対する思考の膠着がなくなったのを覚えている。
プロダクトデザイナーは最終的には人工物の形状の決定に対する技術と責任があり、物質の存在に規定される職業といっても過言ではない。だからといって、唯物論者でなければならないわけではない。