三年立春/理由がない
なぜデザインが必要なのかと問われた時、デザイナーは「問題解決の手段として有効だから」などと説明する。その通りである。しかし当のデザイナー自身にとって、これはあくまで社会あるいは属する環境に対する説得のための弁だ。デザイナーにとって、デザインは目的。もしそうでないなら、より相応しい方法をとることができる。問題解決の手段はデザインに限らないし、表現の方法も然り。ましてや効率よく対価を得るためなら、デザイナー以外の職業の方が賢明だろう。
喜びばかりではない。時にデザインのことが理解されず苦しみ、もはやデザインしない方がよいのではないかと感じることさえある。それでもデザインに報いるべく、企画に対して手段として活用し、誠実に取り組む。私にとってデザインはそういうものだ。
時になぜデザインしているのかと尋ねられるが、それこそが理由であり、もはや「理由がない」のかもしれない。じっくり話せるときはそういう風に説明するのだが、しばしば訝しがられ、何か理由があるはずだと返されてしまう。理由がないことを受け入れられないのだろうか。長いこと、私にはその理由の方が分からなかった。しかしある時、理由を問われた際には(暗黙的に)経済性の説明を期待されているのだと気付いた。彼は理想をふりかざしている。何の得もしないはずがない。だからこそ、何か理由があるに違いない、と。こうして「理由」すなわち「経済的な動機」が、実際とは無関係に立ち現れてくる。
それでもなお、私がデザインする理由に踏み込むならば、つまり「デザインを夢に持ったから」というほかない。
夢を見る。それこそが、時に不合理に追い込まれてなお、自分自身を奮い立たせる動機であり、根拠であり、支えとなる。最も重要な点は、主観的・客観的に明々白々な、すなわち「経済的な動機」からさえ目下はずれてみえる己の行動を支える空虚が、夢であるということだ。そして、夢は叶う。だから夢を見なければならない。夢を見続けなければならない。
夢とは、本人にとって非経済的な理由といえる。夢と理由は、表裏一体。逆説的に、経済性を求めた途端に夢は理由に成り下がってしまう。誤っているとはいわないが、このことを受け入れなければならないと思う。自分自身が、夢のない大人になってしまわないように。
「なぜあなたはデザインするのですか?」「それが私の仕事ですから」