四年小寒/関数化
デザインは芸術の一分野であるが、作家性を発露させるものではない。しかしデザインが創作活動である以上、結果として作家性は発露してしまう。このことをデザインする立場の側からみれば、完成した作品から自分自身を知るのである。作品はカルマだ。作品が次の作品を決めると同時に、自分自身をも決めていく。
才能も、努力する才能もない。自分自身のことを頼れないと分かったからこそ、頼れる自分自身を探す。そのためには真面目に、本気でやるしかない。そして、結果の如何を問わず受け止めるしかない。どうせ、私は私に縛られるのだから。結局のところ、いかにして自分自身を活用するか、ということでしかないのだ。そうして私が私であることに対する諦めがつき、その裏返しとして確信を持てていることに気付く。
自分自身の出自を振り返る。どこから、どこへ向かってきたか。何を行い、行わなかったか。そうして自分自身を演繹する。また、自分自身の発言を観察する。その中から公式見解を省いたところに本音がみえる。それを見極めていくことで自分自身を帰納する。こうして、自分自身が「出来事」に直面したときの「結果」が想定できるようになる。すなわち、自分自身という関数を知るのである。
全ての物事は対数関数である。いつか収束してしまう。新しいことを始めても、いずれ収束に向かっていく。それでも、対数関数である限り全く値が変わらないことはない。その先には新たな喜びが、発見が、達成がある。しかし変化量がわずかであるのも事実だ。
自分自身という関数もまた、対数関数である。やはり収束してしまう。その関数のグラフを変えるには新たな変数が必要だ。だからこそ、人は人と共になる。