三年大寒/季節に気付く
いちばん寒い時期だからこそ、冬の終わりが近いことに思いを馳せる。あんかけうどんや鍋料理を食べるのも、寝る前に湯たんぽを仕込み、暖かいほうじ茶を飲むのももう少し。そんな、子供の頃には感じなかった一抹の寂しささえ覚えるようになったが、不満はない。大人になり、季節は巡ること、季節には季節の楽しみがあることを知ったから。戸棚、いや、ポリプロピレンケースにしまってある、明るい色味の服が目に留まる。
冬の終わりとは、花粉の飛散の始まり。私はひどい花粉症で、目も、鼻も、喉もやられる。毎年、やられてから花粉対策し始めるのだから、我ながらあきれる。春は憂鬱の季節。しかし去年から常日頃マスクを着けるようになったため、今年はそれほど花粉を恐れなくて済んでいる。思わぬ副産物。それに、暖かくなればきっと感染症の状況も落ち着くだろうとも思い、例年より純粋に春の訪れを待ちわびれている。春は喜びの季節。
ある時から、それぞれの季節による不都合をひとつ受け入れることにした。それから、季節に気付けるようになった。これは大きな変化だった。
この頃は春がなくなった、秋がなくなったとよくいわれる。しかし実際は季節がなくなったのではなく、季節を知らなくなっているのだと思う。なぜか。現代の住宅は断熱性も防音性も優れ、家電もあれこれと考えることなく扱える。外気にも陽の光にも関わらず、一定な環境の生活空間を作り出せる。人為的に均質な環境での暮らし。その結果、季節を感じる必要性、余地がなくなったからではないか。不思議なことに、そういう「夢のような」暮らしが実現しているにも関わらず、どうにも気候に対する苦情ばかりが交わされているように感じる。寒いと思えば暑くして、暑いと思えば寒くする。生活環境の快適性を追求した結果、不快さばかりを気にするように習慣付けられているのかもしれない。そのことを、今に生きるデザイナーとして自覚しなければならないと思う。間違いなく、この価値観にはデザインが関与してきたのだから。
そういうわけで、ここしばらくは、自らが生活の中で季節を感じ、楽しむよう意識している。この寒さもあと少し、そう過ごそうと思う。