三年夏至/雨の日
昨年実施した展示会は、準備期間が二年以上と長期に及んだ。研究室の卒業生の有志で開催したため、初めのうちは大学や家に集まり、参加者が増えてきてからは中央駅の貸し会議室で話し合うようになった。情報通信機器が生活の中心に浸透していくのと引き換えに、何かを見失っているのではないか。そのような実感から始まった題材であり、いかにすれば情報技術の発展と生活空間の豊かさを両立できるか、そのコンセプトをまとめることに苦心していた。
話し合いを続けるうちに体感的に気付いてきたのは、まさしく、そのわれわれがいた空間の息苦しさだ。無思考に用いられた費用の掛からない工業用素材や、印刷で再現された偽の自然素材に囲まれた会議室。確かに便利ではある。しかしこのような場所で、果たして主題を深められるだろうか。
そこで新宿御苑にシートを引き、屋外で話し合ってみることにした。虫も片付けもいるが、何より楽しめ、明るく話し合えたように感じた。さらに調べてみると、都営の日本庭園内に「貸し茶室」があることを知った。それからはさまざまな庭園を巡り、茶室に集うことになる。一度も会議室に戻ることはなかった。あの経験は忘れることがないし、個々の作品にも多かれ少なかれ反映されているといえるだろう。何より、情報通信技術の発展による生活の未来を題材にした展示会の話し合いを、日本庭園の茶室で行ったことが刺激的に思う。この点は、間違いなく、われわれが初めてのことだろう。
雨の日の六義園を思い出す。せっかく出掛けるというのにと、憂鬱にしながら電車に揺られた。そうして一歩庭園に踏み入れる。そこでは、雨によって彩られた庭園が、雨の美しさを引き出していた。
意外なことに、都営以外も含めれば庭園内の貸し茶室は多くある。また意外なことに、早くに埋まってしまい予約がなかなか取りづらい。そういうわけで再訪することになる。春には竹藪の影を歩き、水面に涼んだ殿ヶ谷戸庭園。秋になれば、茶室をつつむ麗しい紅葉が辺りを夕陽色に染めていた。われわれ日本人が最も深めてきたはずの、そして間違いなく失われつつある、季節という発見を、発見した。
庭園を散策し、茶室に佇む中で気付くことがあった。消火栓や室外機は簾に覆われ、鉄製の傘立ては板に囲まれ、空調設備は格子に隠される。LEDのシーリングライトをつけてみれば、空間の風流が全く失われる。われわれが生きる現代の、デザインを通して確かに発展に関与しているモダニズム様式と、多かれ少なかれ否定してきた古典様式と並列して評価した時に、果たして、疑問の余地なく、豊かな生活に向かっているといえるだろうか。とはいえ古典様式に回帰することはないし、そのことを肯定するつもりもない。様式とは、その時代や場所に固有の、効率のよい生産手段に合わせて、いわば後天的に構成されるものなのだから。しかし現在というだけで肯定し、過去というだけで否定するのもまた適切な態度ではない。そう体感せざるを得なかった。
この頃、雨の日が続く。それも大雨が。しかし気候変動による異常気象でも、環境が気まぐれに引き起こした天候でもない。夏至の中頃に続く大雨には、半夏雨という言葉があった。社会とは裏腹に悠然とした自然、そこから生み出された文化には驚かされる。不平不満を言いながら「小さな窓」を覗くばかりでなく、窓越しに空を眺めながら移り行く季節に思いを馳せるのも、ただただ良いように、今は思う。