三年立冬/旅行の体験

国内旅行に出掛けるならば、神社仏閣や自然景観を訪れ、郷土料理と地酒を頂き、ゆっくりと温泉につかりたい。桜や新緑、紅葉を見られれば上々。最近になり、参道に並ぶ土産屋群、いわば「ワールドバザール」の楽しみを覚えた。特にその土地の食材や調味料、加工食品等々に惹かれる。見知らぬものが多く知的好奇心が刺激されるし、買って帰れば、普段は口にしないものを肴にしながら旅を追想できる。

子供時分にも両親や親戚に連れられてそのような場所を訪れたが、なぜ大人達は揃いも揃ってこういうものが好きなのだろうと訝しんだものだ。それよりディズニーランドの方が楽しいのに、と。それから歳を重ね、私なりに経験を積み、思索や選択の結果としてこうした楽しみも知れるようになったと感じていた。しかし知人友人に尋ねてみれば、同じく歳を取るにつれて似たような傾向が出てきたという。冬になれば乾燥肌に悩まされたり、油物が苦手になる一方で渋い味を好むようになるといったことは、身体的現象であるため多くの人に共通するのも理解できるが、こうした趣味趣向に収束していくことについては釈然としない。だからこそ我が国の古来からの文化となっている、ということだろうか。

先日、初めて「部屋食」を経験した。案内の際には時節柄必要な措置であり、この方が有難いだろうと思ったが、いざ食事が始まればどうにもしっくりこない。旅館における標準的な水準の客室の間取りは「1K」だ(無論、台所はないが)。集合住宅より広いとはいえ、空間としてはそれに似通う。陽も落ちて窓から風景が見えるわけでもなく、居室として画一的に照明が照らされ、ただ空調の音のみがする。それならばとスマートフォンから音楽や音声を流してみれば、いよいよ自宅での食事同様の状況がつくられてしまう。

当然、客室は客室である。 通常、食事の際には食事処に向かい、時間的に客室を居室と寝室に切り分けるわけだが(多くは食事の間に布団が敷かれて居室が寝室となる)、部屋食の場合は居室としている間に食事室の機能が要求されるため、滞在の上でもいろいろと配慮しなければならない。尤も、居室と食事室、寝室が物理的に分かれた中での部屋食が望ましい。しかし、そのような水準の客室になかなか泊まれるものではない。そうとはいえ、現在の「1K」のまま部屋食が体験的に演出されるのも鬱陶しいだろう。

客室と食事処の分離には、単に配膳の都合だけではなく、空間を最適化できる利点がある。周りから調理や食事の音が聞こえるのも、空間演出として一役買っているかもしれない。食事処のあり方が、食事に最適化されていることを再確認した次第である。

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