七年芒種/映像の現代性
さまざまな企画展を鑑賞する中で、映像を主題とした現代アート、いわゆる「ビデオアート」と呼ばれる作品群に対する印象が近年とみに変わった。作品の主題に関して、ではない。その作品形式自体を考えあぐね、分野としての閉塞感を覚えるのだ。端的にいえば、純粋に映像のみの展示は難しくなっているのではないかと思うのである。
ここ十年程の大きな変化は、映像の敷居が極めて低くなったことだ。4Gの普及以降、携帯回線を通した高品質な映像の視聴、そして映像の投稿すら日常となり、映像は「画面の前」という場所に固定されるものではなくなった。しかし、こうした社会環境の変化に向き合った上で作られたビデオアート、例えばそのような社会構造自体の再考を促すような作品は見受けない。多くは、単にその分野の文脈の中での表現を行なっているように思える。要は、現代において「展示」という形式を用いて映像作品を表現する意味を包括していないのである。それがアートである以上、美術館という特定の場所の、展示会場という固定の空間の中で、数分ないしは数十分間、大抵の場合は立ち続けながら鑑賞しなければならない。それにも関わらず、ただ暗室で映像を流し続けているのみとなると、それなりに意欲を持って鑑賞する者でさえ、芸術性を読み取る以前に「退屈さ」が勝ってしまうのはやむを得ないのではないだろうか。(その意味では、ビデオインスタレーションには展示を行う先天的な価値が存在するといえそうだ。)
もう一つ前提とするべき変化が、VFX技術の極めて高度な発達である。これまで3DCGアニメーションは「実写らしく見える」ことが売りであったが、今やあらゆるものが実写以上の美しさで描けるようになった。さまざまなアニメーション映画の「実写版」が作られている程だ(私はそれらを「写実版」と呼ぶべきではないかと思うが)。その先に『スパイダーマン:スパイダーバース』を先駆として、フォトリアルの追求ではない新たな映像表現の模索が行なわれ、われわれに新鮮な驚きをもたらしている。更には動画配信のサブスプリクションが普及し、それらを常時見られるのだ。一方、現代アートにおけるVFXを用いた映像作品はどうだろうか。率直にいえば新鮮さは疎か、ただ低品質な映像に見えることさえある。かつて芸術は美に裏打ちされていた。現代アートが明快あるいは重厚な美的表現を失って見えたとしても、作家は作品の主題を表現する上で高度な技術をひけらかす必要がないのだと受け取れた。それがビデオアートにおいてはしばしば単なる技術不足に感じ、主題と不可分な表現に思えないのだ。確かに、職業上のCGアーティストと現代アートの作家の比較はお門違いというものだろう。しかし、だからといってその映像作品が良く見えるわけではないのである。
現代アートである以上は現代のアートであって欲しいと、いち鑑賞者としては思う。いろいろと書いてきたが、そういった感情を抱く私が居るということであり、その分野に対する批判が目的ではないことは断っておきたい。