四年大寒/映画鑑賞
私の趣味は、映画館での映画鑑賞だった。感染症の流行により封切りが少なくなったことが契機となり、というわけではない。あれは劇場で『君の名は。』を鑑賞していた時のことだ。物語の展開や登場人物の心情を追うことはでき、アニメーションは美しく、挿入歌も自分好み。世間受けする理由も分かる。しかし作品の良し悪し以前に、全く鑑賞行為に集中できず、心に残らない。やはり、精神的に参っているらしい。映画鑑賞によって、そういう自分自身に気付かされたのだ。
まさに心に残ることこそが、私を映画好きにした。鑑賞後には自分自身が一変してしまうような時間。日常の繰り返しから、つまり自分自身から離れ、見つめ直し、取り戻せる時間。このことが代え難かった。劇場の席で腕時計を外し、ただ映画の始まりを待つ。私が最も好きな時の一つだ。この頃は幕間も広告ばかりで辟易しているが。時には酷い映画に出会うこともある。しかしそれを語るのも楽しく、真に酷い思い出にはなかなかならないものだ。自宅での鑑賞であれば、ただ中断してしまうだけだろう。
スマートフォンの画面で通勤通学の合間に途切れ途切れに見た『TENET テネット』と、フルサイズのIMAXシアターで観た『TENET テネット』は同じ映画ではない。スクリーンの大きさ等はいうまでもなく、その映画に集中できるかどうかが違う。私は自宅の鑑賞の際に(エントリーモデルではあるが)プロジェクターやシアタースピーカーを用い、通信機器から離れて室内は暗くする。どれも、ただ映画館らしさを作ろうとしているに過ぎない。しかし自宅で観るということは、自宅に居るのだ。そうなれば他の途端にやるべきことが挙がる。家事をしなければ、読書や制作をしよう、ビデオゲームをしたい。何より、映画を観られるような時間には晩酌しようと思い立つ。だからこそ映画館に足を運ぶのだ。映画鑑賞は楽しみであるが、遊びではない!何せ、劇場で生ビールを買おうとはしないのだ。
先日、映画館で『フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊』を鑑賞した。ウェス・アンダーソン監督の絵作りは他では味わえず、話運びには映画の映画たる心地良さが満ちている。何より今回の主題は雑誌、すなわち活字文化であり、私の好みにも甚だ合う。大いに満足して映画館を後にする中で、否応なく、映画館に足繁く通っていた頃が思い出された。幸いなことに徐々に気を取り直し、現在は昔のように映画鑑賞できる。しかし、やめてしまった習慣を取り戻すまでに至っていない。そこにはある種の喪失感さえ覚える。やはり、未だに私の趣味なのだろう。映画鑑賞によって、そういう自分自身に気付かされたのだから。