三年白露/世人
Twitterから離れて暫く経った。積極的に活用していたわけではなく、隅で楽しむユーザーの一人だったが、十一年も続けていたことを思えば決して些細な出来事ではない。直後には孤独に感じることもあったが、正しい決断だったと思う。現状のままであれば、戻ることはないだろう。この頃のTwitterで目立つ言説は、あたかも社会性を持つかのように述べておきながら、その実ただ利己性を剥き出しにしているだけにみえる。だからこそ、疲れる。そう、ひとえに疲れてしまったのだ。
何より、自分自身の思考に悪影響を及ぼしつつあった。例えば「ある時、差別的な対応をされるかと身構えたが、結果として素敵な体験だった」という構文。いずれも良い話として流布されるわけだが、大抵その話の前提に強い差別意識が含まれることに気付かない。このような欺瞞を見かける度に、決してTweetしないが、内心では反論を試みていた。逆に何かをTweetしようと思えば、言われなき反論がなされるのではと恐れ、推敲していた。不毛だった。反論行為や反論対策を内面化しつつあることに気付いたのだ。
われわれの世代は、正確にいえばデジタルネイティブではなく「テレビネイティブ」だろう。ゆえに私はテレビからWebに移った。ここではワイドショーやバラエティから離れて、ゴシップやマウンティングを抜きにして、趣味に興じ、興味を深められた。しかし、気付いてみればTwitterはワイドショーを、YouTubeはバラエティを自己消費している。さまざまなSNSは、その内容とは無関係にコミュニケーションを消費するよう働く。Webが自分自身の居場所ではなくなっていく感覚にも、もう慣れた。私はテレビが嫌いだったのでも、Webが好きだったのでもなく、この喧騒が嫌だったのだろう。
この頃、また本を読むようになった。あえて積ん読を目立つように積んだ。時には無心で、時には我慢しながら読む。ここには「私に教えてみせよ」という傲慢がない。私が学びにゆくのだ。ただ孤独に過ごしているだけなのかもしれない。しかし読み進める中で繋がりを覚えることがある。あたかも、かつてのWebのように。全てが繋がった社会からこそ、そのような繋がりの価値を再発見できたのかもしれない。