三年芒種/そのもの
キンミヤ焼酎のハイボールをよく呑む。いつもレモンを絞っているので、レモン入りの炭酸水を買ってみたところ妙に美味しくない。ラベルをよく見てみるとレモン果汁が入っていないことに気付く。ただ炭酸水にレモンを絞るだけのものすら香料で再現されていた。それなら、自分で絞ればいい。そのものの楽しみが無いなら意味がないのだから。まさか生産技術の限界ではないだろう。つまり社会がそれを選択しているならば、現代の限界という他ない。
素うどんというと貧相な料理として扱われるし、肉やら隠し味やら入っていれば豪華な料理として持てはやされる。しかし、丁寧にだしをとった手作りのつゆで茹でたてを食べてみれば、薬味の他に何も入れる必要などないと思えるほどに美味しいものだ。逆に、つゆが傷んでいる時にいろいろな具材や調味料を入れて味を整えることもあるだろう。どうにも、そのものの価値ではなく、記号としての上位性によって良し悪しが判断されているように思う。食事であれば美味しいか、口にして豊かに思えるか、それが最も重要なはずなのに。
たまには飴でも買おうと思い、お菓子売り場を眺める。すると味の特徴よりもいろいろな効果効能が目に付く。お菓子にすら機能性が求められるのだろうか。せっかくお菓子を食べるのだから、単純に美味しく楽しめればいい。ただ砂糖を固めたような「意識の低い飴」がよかったのに。しかしこういうことは飴に限らないように思う。品質が高まるのはいいことだが、いろいろと付加していった結果、そのものの姿が失われていることがある。
ある時、手羽元を煮ると美味しいという話をしていたら、食べづらさが逆に体験を良くするのだろうなどと言う人がいた。正しくは、骨から出汁が出るから。物事をいちいち観念的に捉える風潮には辟易する。大抵、単純な事実に気付かずに、見当違いな見方をしている。そのものの本質を捉えたつもりでいながら、実際の姿すら捉えられていない。
もし食料自給率を憂うなら、パスタやパンばかりでなく米を中心とした和食を食べるべきだろう。「和食だから」ではない。伝統食だからである。その土地において生産効率が良い食材を元にして美味しさを追求し、結果として定着した料理を「伝統食」と呼ぶようになったのだ。伝統は伝統だからというだけで続いてきたのではなく、合理的だからこそ伝統となるまで続いてきた。ただ数字だけを比較したり、いたずらに相対化したりせず、そのものの意味をなおざりにしないようにしたい。