三年春分/言葉にする
「過去分詞」は時制的過去を表さないし、「上流工程」は階級の上位性を表さない。言葉は時に、表面的な見え方によって元の意味内容から離れた内容を誘発する。この頃はそれに端を発するいざこざを目にすることが多く、辟易している。広く理解されるべく言い換えるにあたり、しばしば比喩が使われるが、そこでも同様の現象が生じている。時によっては、比喩している事柄ではなく、その比喩表現における意味内容の議論へと向かっていく。不毛という他ない。ところで、難解めいた言葉を簡単な言葉で言い換えていくとその本性が現れるように思う。知性のひけらかしが目的化している人がいれば、自分自身を煙に巻いている人もいる。言葉に振り回されないようにと、自戒する。
子供の頃には漫画を読むものが批判され、小説が持て囃された。しかし、かつて良家の子女は小説を読んではいけなかったと聞く。そもそも「小説」とは、四書五経を始めとする、天下国家を論じた文章を指す「大説」に対して、取るに足らない小さな説のことを指す言葉である。さらに遡れば、プラトンは『パイドロス』において、話し言葉に対して書き言葉を、すなわち「書物自体」を批判したそうだ。このような輪廻的現象から、現在の書籍や書式を一方的に肯定することはできる。逆説的に、言葉によって形作られる手前の現象自体に没入するためには、言葉による思考の放棄が必要といえるだろう。見たままに描くのが難しいように、そのままに言葉にするのは難しい。実際、言語化されれば多かれ少なかれ相対化されていて、内面化すれば言語化しづらくなるように思う。デザイナーは、自分自身のデザインを言葉にすることが大切だといわれる。確かに、デザインの上では、現象と言葉の振り子の中で、思考しているように感じる。
デザインに対して無自覚な人のデザインには惹かれない。デザインに限らず、その行為や表現の中にどのような思想があるかが問われている。自分自身の思想の位置付けを知るべく、最終的には哲学に行き着く。しかし哲学もまた言葉が前提となる。言葉が哲学の手段であるならば、言葉で表現された思想は、あくまでその一形態なのかもしれない。数式や素描でしか表せない、そういった例はいくつもある。ただ隣にいるだけで心が通じることがある。それもまた、言葉にする、ということなのだろう。