三年大暑/夏の記憶
下駄が割れて足の裏を軽く怪我した。やはりアスファルトには向いていないのだろう。和服は一般的に着られなくなったが、洋装が普遍的なものとは限らず、風土や身体的特徴を考えれば不自然といえなくもない。しかし履物は事情が異なる。道路は未舗装、あったとしても砂利道で、頻繁に田畑に入るような頃に成立した履物を、あらゆる道路、校庭でさえも舗装されるような状況において使い続ける方が不自然だろう。だからといって、ナイロンやゴムで下駄を作ればよいとも思わない。木製のスニーカーのようなものだ。使用環境と素材、装いに適合した設計の靴を使うべきである。
それでも尚、夏には下駄を履きたくなってしまう。子供の頃を思い出す。祖父母は農家で、随分な田舎に住む。夏になる度に帰省すれば、子供らしく畦道を歩き回り、蛙や蜻蛉を捕まえていた。ある日、いつものように遊びに出かけようとすると、いつも祖父が履いている下駄が目に止まった。おもむろに履いてみるが大きすぎて、足の指で鼻緒をつまむように擦り歩く。そんなふうに楽しみながら、いつかちゃんと履けるようになりたいと感じた。
祖父母の家にエアコンはなかった。平成初期ゆえ今ほど普及していなかったし、そもそも要らないともいえる。都心とは違い、田舎の夏には涼しさがあるのだ。そういう体感が否応なく私の中にあるのだろう。普段、都心に住む中でも、西日がきつくなるまではなるべく冷房を付けずにいる。社会的には否定されることかもしれない。しかし冷房が嫌いなのではない。じとっとした暑さの中、時折揺らぐ風鈴の音と、遠くに蝉時雨を耳にしながら、扇風機の前で涼むのが好きなのだ。
夕方になり買い物に出かければ、近所の軒下から蚊取り線香の匂いが漂う。蚊が多い証拠のはずなのに、どうして気分が落ち着くのだろう。空には蜻蛉を見る日もある。品川区に住んでいた時には全く見なかった。全く。某区に引っ越してから少しは見かけるようになり、安堵したのを覚えている。
下駄にも、暑さにも、蚊取り線香にも、蜻蛉にも、夏の記憶がある。さまざまな物を通して、あの無垢な多幸感自体が想起され、生活の中に再発見する。何も、われわれは合理性を遂行するために生きているわけではない。いま、ここが豊かな暮らしかどうかを見つめていきたいと思う。