三年小暑/実体
ペットボトルからラベルがなくなりつつあるのは素晴らしいことだと思う。本質的に全く不要。しかしその売り文句は頓珍漢なものばかりだ。それほど環境負荷を気にするならば、そもそもなぜペットボトル飲料の販売を進めるのか。手間が云々というが、緑茶であればただ水におくだけで飲めるようになる。風味は、淹れてから数日経ったようなものとは比較にならない。新茶であれば格別。「宵越しのお茶は飲むな」の言い伝えも、今や昔なのだろう。
水道水はもちろんのこと、浄水と比べてもミネラルウォーターはやはり美味しい。しかも外で飲み物を買おうと思うと最も手頃だ。以前はよくお茶を、各社の飲み比べをしては選り好みするほどに飲んでいた。しかし日常的に淹れるようになり、どれも美味しく感じられなくなってしまった。そうして渋々ミネラルウォーターを手に取るようになり、ようやく気付くことができた。無理をして常に「お茶」を飲もうとする必要はない。つまり、その時々の状況に応じた最適な選択肢が、既に用意されている。
料理する気になれないからと、ついコンビニエンスストアに足を運んでいた。こうして風味も栄養も経済性もない「食事」を取っていた。家庭を持つ人の中では、「食事」の体裁を整えるためにレトルトの封を切ると聞き及ぶ。われわれは何を食べているのだろう。本来は人類を人類たらしめる行為であり、人類としての根源的な喜びであったはずだ。記号化の果てに、見下し、押し付け合い、無駄なものとされた。こうした風潮の元で取り戻すべきは、形式にとらわれない、本質的な意味だろう。今、料理するのが億劫な時には、それに適した料理をしている。例えば、葱を散らした素うどんや、アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ。冷やご飯があるならば雑炊もいい。これなら、五分先の店まで買いに出かけるよりも手間が掛からない。味は無論。
平たくいえば、方便に惑わされてはならないということだ。だが、どうもこの頃は方便が内面化されている気がしてならない。ただ消費するだけならば、個人の問題ゆえ立ち入るべきではないかもしれない。しかし彼らがデザイナーであるならば、デザインが「方便の潤滑剤」となってしまう。われわれは記号ではなく、その実体を作ることが責務であることを、忘れてはならない。