三年小雪/長屋暮らし
現代人は外食ばかりで料理しなくなったといわれる。その反論として料理行為自体を否定するような言説も散見されるが、それには同意しない。しかし、都心の集合住宅の台所となるとまな板を置くのもままならない有様なのだから、社会がわれわれに料理させたくないのではないかとは感じていた。
私自身は土井善晴氏の教えの通り、一汁一菜を基本とした食生活を送っている。気が向けば主菜も作るが、鶏肉や豚肉、小魚を焼くか、この頃はお浸しを作ることが多い。無論、食料品店に行けば割引の惣菜を買い求めるし、せっかく東京に暮らしているのだから外食を躊躇することもない。
江戸時代中期に遡ってみよう。江戸に住む一般庶民は借家の長屋に暮らす。室内は六畳のワンルームで、四畳半の畳が敷かれた。残る一畳半の土間には小さな竈しかなく、食事は一汁一菜を基本として、干した目刺や煮炊きした野菜等を食べていた。多くの人が煮売屋(煮物や汁物を売る店)や棒手振り(天秤棒を担いだ行商)から惣菜を買い求め、また明暦の大火を契機に外食が大いに栄え、蕎麦や天ぷら、握り寿司等が江戸前料理として普及したという。
つまり、現在の暮らしのあり方と大きく変わらないのである。私はこれまで、現代、とりわけ戦後の高度経済成長を基点として、都市部の暮らしのあり方が規定されてきたかのような印象を持っていた。そして、それには産業社会における生活空間及び生活用品の設計、すなわち工業デザインが強く関与しており、それ自身の自省的な再検討が必要なのではないかと考えあぐねていた。しかし、そもそもどこまでが産業社会によるものだったのだろうか。実際は都市の形成そのものがこの暮らしのあり方をもたらしてきたのかもしれない。江戸時代後期になれば問屋制家内工業が発展したとはいえ、本格的な産業化は明治時代を待たねばならないし、バウハウスやドイツ工作連盟は疎か、アーツ・アンド・クラフツ運動すら起こる以前のことなのだ。
地方にしばらく滞在したのちに都内の大型駅に着くと、東京に帰ってきてしまったと感じる。どうしても都心の暮らしを自然なものに思えないのだ。そうとはいえ、東京に帰ってきてしまったと感じているのも事実だ。紛れもなく、私自身が住む場所なのである。「長屋暮らしの町人」として、もう一度、この生活のかたちを捉え直してみたいと考えている。