ポスト空間とデザイン
人間と空間の関係性はインターネットの進歩に従って変化している。インターネット以前の距離と時間の制限を受けていた時代、われわれの意識は、五感によって知覚でき、われわれの身体が存在し、この私の周りに実在する三次元空間に向いていた。例えば、国境は国土によって規定され、大航海時代にまだ見ぬ大陸を目指し、その果てに宇宙開発競争があった。物理的な距離と時間を移動と拡張によって克服しようと試みていた。このようなデカルト座標系の三次元空間を「物理空間」と呼ぶ。
一方、インターネットによって距離と時間の制限を克服することで、われわれの意識は、物理空間とは異なる、知覚不可能な実在しない観念的空間に向くようになった。例えば、電車の車内で音楽を聴きながらスマートフォンでTwitterしているとき、この車内に実在するその他の乗客や雰囲気の変化にわれわれの意識は向いていない。サイバー戦争は従来の戦争と異なり移動や拡張とは異なる方法で行われている。このインターネットが生み出した新しい空間を「情報空間」と呼ぶ[1]。
情報空間は、かつて物理空間とは異なる文脈を持つ別領域、すなわち「アクセス」するエリアとして認識されていた。しかし、スマートフォンやソーシャルネットワークの爆発的な普及により、実際の社会性を前提とした、物理空間に大きく関わる領域に変化した。つまりわれわれは、日常の振る舞いをそうした状況に合わせて変化させる必要がある。しかし、慣れ親しんだ物理空間の作法のまま情報空間で活動している人も多い。さらには人間としてもっとも重要であるはずの物理空間における社会性が、情報空間での振る舞いによって大きく影響されると認識すらしていない人もいる。物理空間における生き方や行動が、情報空間の拡大によって揺らいでいる。しかし、この変化は可逆しないどころかますます加速する一方で、止めることはできない。いずれは逆転し、物理空間における社会性が情報空間に内包されることになるだろう。
電子化の先に物理空間と情報空間は一体化し、身体は物質的情報空間の中に存在していく。こうした次なる空間観念を「ポスト空間」と呼ぶ。ここでは物体と情報の単純な二項対立は終焉する[2]。われわれの諸観念は大きく変化せざるを得ず、旧来の空間下とは異なる思想の設計論もまた要請される。
VRは、物理空間を排除し情報空間において置き換えるものといえる。その多くは擬似三次元空間を志向しているが、物理空間は既にポスト空間化している。従ってVRは物理空間の性質を備えた情報空間ではなく、物理空間の性質を前提としない、情報空間の純粋な価値を追求するべきだろう。そうとはいえ、われわれには体積があり、物体としての諸活動が存在する。どれだけ情報空間化が進んだとしても、物理空間中の活動として呼吸や摂取、排泄、生殖は免れ得ない。その意味で、VRには原理的な限界があると思われる[3]。
空間デザインでは、いかに人の身体感覚や物体的活動に沿って建築の内外部空間を分節、接続するかを設計する。しかし、例えば異なる二つの空間に対して常に接続状態にある通話状態の情報通信機器を置けば、その分節状況とは裏腹に実質上接続されることは踏まえない。インターフェースデザインでは、多くはユーザーの属性に基づいてシステム内の構成を分節、接続し、ユーザー同士の繋がりを作り出す。ワイヤーフレームは画面を表す矩形の中に書かれ、画面から1pxでも外側のことは検討に入れない。つまり、空間デザインは物理空間を、インターフェースデザインは情報空間を対象とし、他方の分野を原則扱わない。従って、両者を「物理空間デザイン」「情報空間デザイン」として再整理できよう。一方のプロダクトデザインの対象はその特徴として、空間に内包されインターフェースを内包する。いわばインターフェースとのインターフェースとして、ポスト空間におけるデザインの中核を担うことになるだろう。
- 註
- 本論考は西暦2014年度の修士論文の諸論を、西暦2015〜18年頃に書き留めた内容に基づき加筆したものです
- [1]
- ただし、画面内で再現された擬似三次元空間のことを指しているのではない。ここで定義した情報空間とは、あくまで情報通信技術を用いて人と人が物理的距離の制限を超えて繋がりコミュニケーションすることで生まれる抽象空間のことである。
- [2]
- ここでいうところの「物体」と「情報」は、対比的に用いられる種々の類義語を包括する。前者には「アナログ、ハード、フィジカル、アトム、リアル、物理的、身体的、物質、電子化以前」等の、後者には「デジタル、ソフト、データ、ビット、電子的、精神的、仮想、電子化以降」等が考えられる。両者の最大かつ重要な違いは、物体には感覚的に自明である本質的性質として延長があるが、情報は非伸張的である点だ。では、情報における本性は何であろうか。私はまだこのことを説明する言葉を持たないが、一つの例として思い出を挙げよう。思い出は物体的な性質を持つものではない、いわば観念上のものだが、確かにわれわれの感覚の上では実在している。また、批評空間という言葉も興味深い。美術におけるサロンや科学における学会を考えれば物体的な対象に基づくともいえるが、その実さまざまな批評が交わされることで形作られるものであり、われわれはそれを実在すると考えている。
- [3]
- 身体が物体であるならば、物体的な対象のみが、われわれに対して直接的に影響を与え得るだろうか。しかし、刺激は実際のところ皮膚上の受容器で電気信号に変換され、神経を通り脊髄でさらに化学物質に変換されて脳に伝えられる。われわれの認知とは、いわば脳内で生成される仮想的な現象に過ぎないのである。従って、元々電気的信号に因る情報空間の方が正しく現実的といえてしまう。確かに、思考実験に過ぎないかもしれない。ここでは、現実という仮説を支えるものは常識しかないと述べるに留める。