画面の外へ
機能が同等になると、そのものの本質が露わになる。パソコンとタブレットであれば第一はCUIの有無だが、使用上の最大の違いは「デスクトップメタファー」だろう。画面内のウィンドウ表現とは異なり、タブレット(及びスマートフォン)でAppを切り替えると、いわばその板は別のものに変化する。両者にはインターフェースがそれ自体から切り離されているか、それ自体を含んでいるかの違いがある。つまり、デスクトップメタファーは「物体メタファー」に変化したのだ。そうとはいえ、画面は単に現代における情報処理に最も適した、いわば経済的なインターフェースというだけであり、永続的なインターフェースではない。結局のところ、クラウドに接続する方法の問題なのだから。もちろん、紙が未だに廃れないように情報表現の手段としての画面が廃れることもないだろう。しかし更なる技術発展の先に画面が相対化され、App化されたものの一部が再び物体——いわゆる専用機器に還元され得る。スマートスピーカーはその代表だ。
機能が同等だとしても、インターフェースによってそのもののあり方、すなわちその機能に対する感触が変化する。つまり、インターフェースに行為を合わせているか、行為に基づくインターフェースであるか——人の振る舞いに即してこそ真の実用品ではないか。あえて二項対立してみよう。ジェスチャーによる操作が難解な理由は、明快なメタファーを伴わない点だ。機能と所作を結び付けられず、ほとんど呪文術に他ならない。灯りをつけるべく「ルーモス」と唱えながら杖を横向きに円を描くように振り、物を引き寄せるべく「アクシオ」と唱えながら杖を上向きの扇型に振る、というわけだ。一方で元々の所作やそのもの自身のあり方を転用すれば、インターフェースはいわばそのもの性を持ち、われわれの認識の上では物理的な対象の内に整理されるだろう。画面を覗けば個人認証が行われ、音声の発生源に対して尋ねるように。このことには実際の使われ方や伝統的形式による機能に対するそのものらしさの想定、すなわちメンタルモデルの影響がある。しかし、われわれが物理的な身体や空間に合わせて進化を遂げてきた事実、すなわちア・プリオリな認識もまた含まれるのだ。ところで、電子書籍端末における見開き形状やページめくり表現が不要であるように、専用機器の設計に際して構成部品や画面表現の記号的、直接的な再現は第一義的ではない。グラフィック上の表現に置き換え得ない物質性こそが物体の優位点であり、最大の価値だ。このことを踏まえた表面的ではないそのものらしさの置き換えが求められている。使用性、継続性、多様性——広い意味での固有性、すなわち特徴こそ直接的に再現するべきなのだ。
Apple Watchに対してカバーやシートを付ける人々がいる。彼らはそれを腕時計ではなくコンピューターとして認識している。逆に画面が常時点灯しない点や充電が毎日必要な点を欠点として主張する人々にとって、それはコンピューターではなく腕時計なのだ。その実、Apple Watchは腕時計ではない。腕時計を比喩した情報通信機器——物体メタファーを物体化したものである。しかしこの方法により、実に腕時計として受け入れられたのだ。但し弊害もある。自宅で腕時計を外す習慣がある人は就寝時に身に付けたいと思わないだろう。腕時計として気に入らないから買わないという人もいる上、そもそも腕時計でさえ全ての人が所有するわけではない。当然、その形状や画面サイズ等にも腕時計による制約が起きる。なお、同様にスマートフォンも電話を比喩した情報通信機器だ——Steve JobsがいみじくもiPhoneのプレゼンテーションにおいて挙げたように。しかし携帯電話は新しい道具であり、良くも悪くも比喩的制約を持たない。従って柔軟に変化できるのだ。ところで、例え腕時計に凝る人であってもスマートフォンを身なりに合わせて持ち替えはしないだろう。服装に合わせる必要がないと暗黙の了解が生まれているわけだが、これは腕時計や眼鏡と異なり、携帯電話がファッション文化の外で発展してきたことに因るのだろう。
電子化の先に一枚のガラス板に集約するばかりではなくなり、再物体化、ひいては空間化や身体化が起きつつある。果たして、何をどこに対してどのように行うべきか——ここにこそ、まさしくデザインの役割があるといえよう。
- 註
- 本論考は西暦2015〜18年頃に書き留めた内容をまとめたものです