パソコン今昔
かつてスマートフォンには「母艦」となるパソコンがあり、むしろスマートフォンは「パソコンの一部を携帯できる端末」という位置付けだった。今やその概念は変わり、スマートフォンはパソコンではなくクラウドと紐付いている。それだけでなく、パソコンも並列してクラウドと紐付き、多くのユーザーの個人データはそこに保存されている。この分野の移り変わりは早い。ストリーミングによる音楽聴取が当たり前になった現在の基準からすれば、母艦上でリッピングした音楽データをケーブルを通して同期させるMP3プレイヤーは、さしずめそれが中心だった頃におけるMDプレイヤーのように、一世代前のものに見えてしまうだろう。
しかし、このような感覚があまりない人も多いと思われる。パソコンがレガシー化しているのだ。未だスマートフォンのバックアップを母艦に対して行っている人は少なくないだろう。また、そのような人々は、個人データがクラウドにしかないと不安という感覚を持っているかもしれない。何を隠そう、私自身も長いことそうだった。(もちろんローカルとクラウドの双方でバックアップを取るほうが正しいことは確かだし、私もそうしている。ここで述べたいのは、データの扱い方、捉え方の話である。)
私が思うに、「パソコン世代」と「スマートフォン世代」の溝はここにある。それは「ローカル世代」と「クラウド世代」といってもよい。デジタルネイティブ世代内で、世代間ギャップが起きている。今の大学生は、もはや論文もスマートフォンで書き、就職してから初めてパソコンに触る人も少なくないという。それを嘆く向きも強いが、私は時代の必然だと考える。かつてパソコンを使えることが最先端だったが、今やパソコンは最先端ではない。パソコンが最先端だった頃における「パソコン」は現在「スマートフォン」であり、パソコンは「一世代前のもの」になったのだ。言い換えれば、パソコンが固有に特別な地位にあるのではなく、特定の時代において特別な地位にあったものがパソコンだった。それが時代と共に入れ替わったということである。
その観点でいえば、ハードウェアキーボードもまた懐古趣味になっていくのだろう。冷静に考えてみれば、慣れを除いて、それでなければならない本質的な理由はない。私自身はそれがソフトウェアキーボードとは異なる使用性であると体感しているし、同時に極めて慣れてるため、世間から古臭く思われる程度のことであれば使い続けるに違いない(実際この文章もそれで書いている)。しかし、これからの子供たちは物心がつく前からスマートフォンを使う。彼らはフリック入力、あるいは、よりナチュラルかつ入力スピードが速い音声入力といった、われわれ世代からみれば新しい入力方法のネイティブになっていくだろうし、当然そうあるべきだ。仮にその後キーボード配列の入力手段を使うことになったとしても、単に物理ボタンがあるか否かの違いでしかない——台が必要なく、柔軟性に富み、かさばらず、追加費用の掛からない——ソフトウェアキーボードを、彼らは使うことになるのだろう。(一方、スタイラスによる線描が指に置き換わるとはないように思う。確かに道具がいらないことは利点だが、自然な手法とは言い難く、使用性・効率の観点で欠点がありそうだ。)
このような変化に対して、われわれは郷愁に駆られるかもしれない。タイプライターに始まった歴史ある入力方法の否定は、嘆くべき時代の不合理だろうか?だが、もし合理性を持ち出してそれを肯定するならば、より合理的なDvorak配列を使用しているだろうか。否、QWERTY配列を使用しているに違いない。そこに疑問を持ったことすらないのではないか。それならば、物理的な突起がなければブラインドタッチができないと次に主張するかもしれない。確かにそう言える。しかし、そこに慣れの要素を超えた普遍性があると断定できるだろうか?また、技術発展によってソフトウェアキーボードに対してより自然なフィードバックがもたらされるかもしれない。何より、自分自身のソフトウェアキーボードを使用する割合が、年々伸びていることに気付くのである。すなわち、現在受け入れられているインターフェースは、必ずしも「合理性」に基づいて決められたわけではないということである。(デザイナーであれば、慣れの功罪については日々痛感しているに違いない。)
われわれが共に歩んできたコンピューターの当たり前が、永遠普遍である根拠がどこにあるというのだろうか。繰り返すが、生まれて初めて触ったコンピューターがスマートフォンである世代が、大学生になっている。もちろん今現在はパソコンがなければ仕事にならない。「仕事に支障が出る」と若者を見下げれば、確かに目の前の認知的不協和は解消できるかもしれない。しかしそれはいずれ有効でなくなり、むしろ社会から見下げられる行為になるだろう。確かにこれだけ普及しているパソコンが、タブレットか何かに置き換わるとは信じられないかもしれない。しかし考えてみてほしい、三十年前のオフィスにパソコンはほとんどなかったのだ。その業務上のルールをパソコンが置き換えたのだから、経済的・実務的なメリットさえあれば、パソコンが別の何かに置き換わることは想像に難くない。
では、パソコンはもはや廃れゆく運命なのだろうか。私は、パソコンは「工作器具」になったのだと考えている。物質的価値を生産する人々にとってボール盤や切削機が未だに必要なように、情報的価値を生産する人々にとってパソコンは必要であり続ける。かつて、パソコンはインターネットに接続する唯一の方法であり、それが唯一のインターフェースだった。データを作るにもパソコンは効率が良く、デザイン業界で言えばDTPを始めとして広く使われるようになった。しかし今や情報を消費するためにパソコンは必要ない。その上、簡単な情報の生産もパソコン無くして可能になっている。一方、それを高度な水準で行うためにパソコンが必要不可欠であることは現在も変わらない。今後その範囲はますます狭まっていくに違いないし、あるいはデザイン分野では不必要になるかもしれない。しかし、最終的に、低レイヤーのソフトウェア開発においてパソコンは必要であり続けるだろう。