モノか、データか
ペーパーレスという言葉は、既に過去のものだと考えている。理由は二つある。一つは、全てをデータ化しても完全には問題解決しないこと。「データは場所を取らないので管理が容易」だったはずが、データ化によって質の異なるセキュリティリスクが発生する上、日に日に扱うデータが増えていることも相俟って結局のところデータをどう管理するか悩むようになっている。それにデータを保存するためのストレージを物理的ないしは仮想的に確保し安全に保管しなければならない。結局、データ化以前と同様に気にかけなくてはならないのだ。多くの人が、データを適切に管理できないならば無理にデータとして扱う必要はないと気付き始めている。モノに対してデータが優位とは限らないということだ。
理由の二つ目は、モノとデータをモノとデータとして区別しなくなってきていることである。ポイントカードを考えてみよう。近年「邪魔にならず煩わしくない」をうりにして、紙のポイントカードのスマートフォンアプリによる代替が流行っている。しかし支払う際にスマートフォンを立ち上げてアプリを起動しなければならないし、ホーム画面がポイントカードアプリだらけになる上、通知による広告がしばしばやってくる。財布の薄さが全てであるならばともかく、ポイントカードが邪魔で煩わしいという元々の感情が本質的な意味でどれだけ解消されたというのだろうか。いっそのこと財布から紙を一枚取り出した方が手軽ではないかと思うくらいだ。(もちろんアプリだから駄目で紙ならば良いというわけではない。これがWallet Appのようなシステムに搭載されれば話は違ってくる。OSに組み込まれているため即座に立ち上げられるし、一つのアプリの中にまさしく集約される。しかし企業が個人情報を収集したり通知で宣伝できないため採用は難しいだろう。)
そもそも「データ」や「アプリ」という括りは、鉛筆と電話と椅子を一緒くたにするようなものだ。カレンダーと動画ビューワーとソーシャルゲームは、開発技術や販売網は同一かもしれないが、本質的には全く別種のものである——別種として考えなければ、消費社会を適切に捉える手立てにはならないだろう。また、量産品の商品アイデアに対して「アプリではダメなのか」と反射的に考えてはいないだろうか。機能リストを満たすかどうかで判断すれば、確かにアプリの方が製造原価は掛からないかもしれない。しかし使用者が適切に機能を達成して初めてそのものに価値が生まれることを忘れてはならない。そのために対価を支払う消費者がいれば、開発コスト如何を問わず商品企画は成り立つ。すなわち、企画に対して適切なインターフェースかどうかの問題ということだ。モノかデータかの選択基準は、モノとデータの対立上にあるわけではなく、全てを並置した上で利便性や経済性によって選択される。
この見方を自然に行っている世代と、そうでない世代がいると考えている。ソーシャルゲームにおけるコレクション要素を考えてみよう。前提として、私はそれで遊ばないし多くの批判には同意する。しかし「実物がない、使い道がない、手元に残らないデータの収集に子供達がお金を払うのはおかしい」といった批判は的外れである。このような人々に限って、モノのコレクションを肯定してはいないだろうか?しかし彼らがかつて集めていたシールや消しゴム、カードその他を果たしてどれだけ手元に取っておいているというのか。また、そのシールや消しゴムを果たしてどれだけシールや消しゴムとして使ったことがあるというのか。データのコレクションはこれまでに流行した同種のコレクションアイテムが時代の必然としてデータになったということであり、特定の世代にとっては懐古的な意味で受け入れがたいかもしれないが、好きなものを収集したいという本質的な欲求は変わらない。まさしくガチャガチャというわけだ。
アナログとデジタルには確かに大きな質的違いがあり、それを明示的に捉えるのは重要である。しかしそれらは対立関係でも前後関係でもない。物心が付いてからインターネットが登場し、その発展と共に成長してきた世代の人々がそう捉えてきただけである。データ化されないモノを見下げる場合も、データではなくモノに固執する場合も、物事を旧来の世界観で捉えていることに変わりはない。時代が進み、それらは既に相対化され始めている。物事のあるべき姿を考えるために、私たちはこの世代間ギャップを自覚する必要がある。そうしなければ、夕日町に思いを馳せる人々に仲間入りしてしまうだろう。