電子化のあり方
デジタルカメラ・ビデオカメラ・カーナビ・テレビ電話・映画・ラジオ・歩数計・メモ・電子辞書・書籍——あらゆるツールがスマートフォンに搭載され、あらゆるコンテンツがデータ化された。あらゆる機能とコンテンツが一つのデバイスとその周辺のシステムに集約し、今や誰もが当然のようにその利便性を享受している。そのような電子化の中で様々な制限も解消されてきた。例えば写真であれば、フィルムカメラは撮影枚数が二十四枚や三十七枚であったし、右下に入れた日付は修正できなかった。しかし今やライブラリーはクラウド化して撮影枚数はほぼ無制限になり、データ自体に撮影情報やジオタグが付与されて編集も容易になった。一方でアナログの頃から残されている作法もある。写真の例でいえば、画角はフィルムのフォーマットを受け継いているし、レンズはフィルム時代のものも使われているし、シャッター音は電子的に再現されている。他にも、電子書籍にはページめくりが残され、ダウンロード販売の音楽アルバムは七十四分以内で、映画の一時的な視聴権の購入はレンタルと呼ばれている。
これらは移行期における一時的なものだろうか?確かに、電子化自体に対してユーザーが拒否反応を起こさないために元の記号性を可能な限り受け継ぐ必要はある。しかしそれは電子化以前の状態に慣れ親しんだ人間が大多数だからこそ起きる反応であり、日に日に生まれるデジタルネイティブにとっては無関係な話ではないか。そもそもアナログの制限を再現してしまっては、せっかくの電子化を活かしきれなくなってしまう。
しかし、これまでの作法を考えなしに無視して、電子媒体へ安直に置き換えればよいわけではない。コンテンツのダウンロード購入を考えてみよう。概ね価格が安くなり買いやすくなったし、体積を考慮する必要がなくなり管理が容易になった。しかし運営会社が倒産したら元も子もないし、フォーマットが廃れたら閲覧できなくなってしまう。会社やフォーマットの寿命が、紙や磁気テープよりも長いと言い切れるだろうか。他にも、データで購入したコンテンツは他人と手軽に共有しづらいと言える。家族間の共有システムやURL共有は存在するが、データ自体を貸すことはできない。また、棚に並んでいる本やCDと画面上に一覧表示されたそれでは、場における共有性は著しく異なる。そう考えてみると、最近ではデータが入った端末ごと共有していないだろうか。ボールペンを貸すようにデザインツールの入ったパソコンを、ゲームカセットを貸すようにダウンロード購入したゲームソフトの入ったゲーム機をまるごと貸したことが。そこでは「データを入れた物体」が交換の媒介を担っていて、それはかつての貸し借りと似た形式と言える。確かに電子化がもたらした新しい価値は素晴らしい。一方でどれだけそれが発展しても、フィジカルに扱える物体の価値も変わらずに存在し続けるということだ。
あらゆるものを電子化し、画面上で再現しなければならないと思い込んでいないだろうか。また、いくつかの汎用デバイスで全てをまかなうことに疲れてはいないだろうか。過去の生活に戻ろうと提案するつもりは毛頭ない。私は懐古主義を正当化したいのではなく、電子化が普及し、これからも普及し続けるからこそ、データに対する物体の優位点を見直すべきではないかと述べたいのだ。本質的に考えてみよう。目先の「合理性」によって隠された側面を見直す必要がある。ものの形式やコンテンツの流通を電子化する上で、今まであった物体がゆえの制限をどれだけ引き継ぐべきだろうか。言い換えれば、物体がゆえの制限でありながらそのものの性質と言える特徴をどれだけ残すべきだろうか。電子化の肝は経済性を目的とした再現ではなく、電子ならではの新たな価値を与え、発展させることだ。重要な点は、果たして何がそのものをそのものたらしめているのか、観察し、理解し、その本質にじっくりとフラットに向き合うことである。
- 註
- 本論考は西暦2014年に公開した3本のblog記事の内容をまとめたものです