あれもデザイン、これもデザイン
デザインとは、すなわち設計である。しかし、一口に設計といっても実際の業務内容は多岐にわたる。業務上、主に意匠に対して最終的な責任を持つわけだが、そのために必ず調査を行い、製品の幹となる観念を見出し、文化性・社会性・審美性・経済性・実施性等を勘案しながら発案し、企画にまとめ、開発陣——とりわけ決済者——に対して提案する。基礎的な案が了承されると、工業製品であれば内部構造や量産性を考慮した造形を行い、外観意匠図面や3Dモデルにまとめ、各技術部門に対して提出する。関わり方によってその後の量産や販売も利用者や消費者の観点から監理する。この一連の作業を具体的に実施できる者がデザイナーである。
しかし、ごく一般的な意味で認知されている「デザイン」は、時に見た目のことを指したかと思えば、時に絵や絵を描くことを指し、時に形や柄や色のことを指す。例として「サッカーはスポーツの一種で、ボールを蹴って相手のゴールに入れる」という説明をデザインに対して行なってみよう。適切な言葉を使えば「プロダクトデザインはデザインの一種で、量産品のあるべき形を設計する」となるが、大衆的な言葉では「デザインはデザインの一種で、デザインをデザインする」になるではないか。この言葉の曖昧さを究極的に表しているのが「デザイン性」だ。「デザイン性」は「機能性」や「操作性」の対義語であるかと思えば、見た目の「美しさ」あるいは「奇抜さ」の指標であるらしい。これほど抽象的にも関わらず「デザイン性」という言葉はごく一般的に使用されている。彼らにとってデザインとは、もっと曖昧な「オシャレっぽさ」とでもいうべき何かなのかもしれない。(しかしその言葉を一概に批判できるとも限らない。私たちもまた、承認を主な目的とした見栄えの良い物や行為のことを「あれは所詮ファッションだ」と言ってはいないだろうか。ここでは「ファッション」は本来の語義から離れた蔑称の一種として用いられている。)
消費者に限らず、デザイナーもこの言葉を縦横無尽に使用する。果たしてデザイナーが指し示すデザインとは、芸術なのか、技術なのか、分野なのか、行為なのか、監理なのか、計画なのか、過程なのか、企画なのか、成果なのか、印象なのか、構想なのか、意匠なのか、機能なのか。「デザイン」という言葉は、正しく使用される・されないの枠に収まらず、現代の日本において混乱状態に陥っている。
あまつさえ、デザイナーの中には「デザイン」の意味内容を積極的に拡張する、いわゆる「広義のデザイン」を推し進める人々がいる。もちろんそれ自体に問題があるわけではない。確かに現代はあらゆる物事が高度に工業化されているため、もともと近代的生産に最適化したものづくりプロセスとして発展したデザインの方法論はそのまま用いられる。したがってデザイナーにとってそれは区別する必要がない、いわばデザインらしい行為であり、それを「デザインする」と言葉を転用し呼ぶことが誤りであるとはいえないかもしれない。工業化建築がデザインの一分野として了承されるならば、例えば大量生産されている映画や音楽——私の言葉を使えば「工業化映画」や「工業化音楽」——もまたデザインであるとある種いえなくもない。しかしそれを認めるならば、デザイン賞に対して映画や音楽が受賞しても良いことになる。果たして、現にグッドデザイン賞がアカデミー賞やレコード大賞と区別し運用されてきた歴史的・文化的な背景や意味を顧みず、デザインの側から積極的にデザインをあちこちに転用していくことがデザインにとって適切な行為と言えるのだろうか。近年「工業化アイドル」が大賞候補にノミネートしたことを思い出すべきだろう。
言葉は本来意味のためにあり、我々は言葉によって物事を切り分けることで、物と物、事と事をそれぞれ区別された対象として認知している。しかるに曖昧で多義的な意味を特定の単語一つで示すならば、そもそもの個別的な意味をそれぞれ認知できなくなり、その単語自身も空虚なものになる。だからこそ、デザイナーとしてデザインの行為だけでなく、デザインという言葉も適切に運用していきたいと切に思う。そうしなければ、デザインという元来産業革命を背景に発生した一連の芸術運動、およびその発展と普及の歴史、そしてその対象を認識し指し示すために生まれたデザインという言葉は、消えてしまう。